――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(4)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
上塚は歩く。ひたすら歩く。歩いた先でお馴染みの“排便風景”に出くわす。
「柳、杉、竹等の林が青い麥田の合間々々に點在して居る。路端の小部落も多くは瓦屋根に白壁の比較的小奇麗な家で、如何にも此の邊の富裕さを思はせる。道に面して至る所大便所の設けがある。肘掛椅子の樣な體裁で、村人や通行人は人通りがあらうが有るまいが、悠々閑々として、長煙筒を喰へながら用を足して居る。此れが村落又は小市の附近になると數間毎に連つて居るから壮觀である」。
ここで上塚の大陸踏査から10年ほどが過ぎたより昭和4(1929)年11月、玄界灘を渡り大連で下船し鉄嶺、長春、ハルピン、奉天などを経巡った後に天津を経て北京へ向かった里見�の『満支一見』(春陽堂 昭和8年)を思い出した。
「北京の城壁が見えだしたので、窓外に目をやっていると、いずれ城外に住むくらいの下層民だからだろうが、実に驚くばかり、野糞中の点景人物が多い」。「あすこにも、こっちにも、あれ、まだあの先にも、という風で、とてもすっかりは指し尽くせないくらいだ」。
ここで里見は、北京における野糞についてウンチクを垂れる。
「風のあたらない城壁の陰などで、長閑な日射しのなかで、悠々と蹲踞みこんでいるのを、遠くの車窓から眺めるのでは、決して汚い感じではな」い。「成程、人間は、食って、寝て、ひる動物だ、という風な、元始的な、且恒久的な、誠に暢々としたいい気持になる」と記した後、「話の序でだから書くが」と無順炭鉱での経験を綴る。
「こういう点景人物の一人が残して置いた品物で、直径二寸ちかくもあったろうか、とても人間業とは思えないような見事なやつを道のべに発見した。その時は黙っていたが、後日志賀に話しかけると、彼もまたその偉大さに一驚を喫したものとみえて、ああ、知ってる、知ってる、とすぐに頷き返したことがある」。
かくて、「何はしかれ、中華民国人の野外脱糞は、平原の遠景に点じて古雅の興趣を増すと雖も、想いひとたび闇夜その遺留品を踏んづけざらんを保せざるに及べば、転、悚然たらざるを得ないものと云うべきである」と、結んでいる。
想像を逞しくするなら、旅行中の里見は「闇夜その遺留品を踏んづけ」たはずだ。この旅行に同行した志賀直哉は、闇夜の北京の街角で「その遺留品を踏んづけ」て「悚然」としたそうだが、さすがの「小説の神様」も「中華民国人の野外脱糞」の前には無力だったということだろう。
さて尾籠な話はこの辺で切り上げ、上塚の旅を急ぎたい。
上塚の眼は綿花の栽培に注がれる。
たしかに上海や通州辺りでは綿花栽培の試験場が見られるが、「如何にせん民度發達せざる支那農民の事とて、容易に舊慣を脱却して新法に依る事を敢えてし得ない」。だから綿花の栽培方法も旧態依然たる儘であり、「今日に於て何等官僚の跡を認」められず、「土地を虐使し、蒔種、収穫の時期に注意せず、除草、間引き等に關しても何等考慮する所無し」。だから増産など見込めるわけがない。栽培面積の割合に収穫量が少ないのは当たり前だ。
「間斷なき土地の使用」こそ「土地虐使」の最たる一例と言える。作物の輪作は「農業の重要なる原則」ではあるが、「一作物の収穫後數日を出でずして、第二の作物を植え、其後直ちに第三の作物を栽培し」、寸時たりとも土地を休ませることがない。そこで「土壤は次作物の爲めに準備を遑むの期無くして年々瘠土と化すは明から事なり」。
この件を読んで毛沢東の時代を考えた。激しい政治運動が全国規模で連続し、国民の腦と体は休む暇もなく、かくて精神は「年々瘠土と化」したのではなかったろうか。《QED》