――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(2)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
�田ら一行が「蒙古を通過したのは一九二二年の三月末から四月の中旬にかけてで、その間約三週間をついやしている」。
クーロン(現ウランバートル)を出発し、内蒙古を経て北京の西北方に位置する張家口に向かった。同地は中国本部と蒙古とを結ぶ要衝である。
「(張家口への)街道筋を通つてみて非常に印象深く感じたのは、全體をつうじて蒙古的色彩がまつたくぬけ去つていかにも中國的になつていることだ。おそらく蒙古人はすべてへんぴな土地へ追いやられて、このあたりはほとんど一人も殘つていないのだろう。中國の移住民が全體を握つていることは、うたがいない」。
蒙古人がいないのだから、当然のように蒙古特有の遊牧も牧畜も見られない。それに代わるのは中国人による「農耕と原始的商業だけがあるだけだ」。「中國人の勢力がますます蒙古人を追いのけていくようだ」。「きつと中國人と蒙古人との紛爭が絶えないにちがいない」。蒙古人は中国人との貿易を必要としているはずだが、その形跡がみられない。そこで�田は、「この街道筋が軍事的にも重要な交通路であるため、特別に、蒙古人を近ずけないのではなかろうか」と考えた。
それにしても中国人は想像を遥かに超えて蒙古を侵食していたのである。ひたひたと押し寄せる中国人は蒙古人の命でもある草原を引きはがし、畑地に替えてしまった。蒙古の文化――蒙古人の《生き方》《生きる姿》《生きる形》――の全否定、つまり侵略である。
やがて張家口に到着した。
「張家口の町は當時五、六萬の人口であつたろう。北から南に細長く延びた町だつた」。
もちろん守備しているのは中国兵だが、「中國の軍閥の兵士は相當亂暴力だときいていたので危險がひしひしと迫つて來る思いをした」。「ここに駐とんしている軍隊は二個中隊くらいで、最近はいつてきた張作霖の軍隊だった。相當にたちの惡いやつら」だとの評判を聞いていたので、�田は警戒心を高めざるをえなかった。
ここで「三井のマークがでかでか書き出されていた」のを見た�田は、「日本帝國がすでに一九二三年に、こんな奥深いところまで入つていたのは忘れることができない。さらに日本がこゝを占領し、ここに蒙彊政府なるものをつくつて支配の中心としたことは偶然ではない。單に主要の地であるばかりでなく、すでに遠く野獸の爪牙がここまでのびていたことも忘れてはならない。日本領事館の分館もあつて副領事がいるそうだつた。財閥の擁護のためにこれが置かれていたことを忘れてはならない」とし、張家口の中心には「ヨーロッパ、アメリカ、日本などの諸資本主義國の貿易業者が」「たてこもつていた」と続けた。
以上で「一、ゴビの砂漠を行く」を終え、「二、動亂の中國にて」に移る。
中国共産党が上海のフランス租界で結成されて3か月ほどが過ぎた1921(大正10)年10月初旬、�田は上海行きの日本郵船の春日丸の船中で、「私を上海で案内してくれる約束をしていた同志チャン・タイ・レイ(張大雷)」と出会う。
「中國共産黨が設立されて以來の同志でありまた中央委員の一人であつた」彼は「山東出身で、北京大學を出た社會學者」で、「その時分は進歩的分子によつて經營されていた上海大學」で「社會學を講ずるかたわら、學生の間での共産主義運動の指導をしていた。そして黨内の理論的指導者の一人であつた」。
彼は中国共産党結成から2か月ほどが過ぎた1921年9月に東京に現れ、「日本の共産主義者にあい、極東民族大會えの日本の代表派遣について打ち合わせをした」。そこで「代表の一人」に選ばれたというのだから、�田は最初から中国派だったということか。《QED》