――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(36)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
両国と両国民の違いのすべては「自然と歷史から來る」。「第一のそれは、大國と小國とのちがいから來る」。「第二のそれは異人種に侵略されつゝ暮した國民と同人種だけで同じ島のうちに暮しつゞけた國民との相違でもある」。「外國と交際しなれた支那人の寛濶と、鎖國して暮した日本人の偏狹からも來る」。「無盡蔵の富を有する國の民と、磽角なる山國に住んだ民との生活に對する精神の相違からも來る」。
かく一々挙げてはキリがないが、その相違から「自分たちは、思はず根本の問題にぶつかる」。つまり「同文同種の國といふが、一體、支那人と日本人ぐらい違つた國民が澤山あらふかといふことである」。果して両国民が「性格も、人生觀も違ひ、利害も異なるものとしたら、果して、日支親善などと言ふお題目が正直に口に出て來る筋合のものであるかどうか」。正面から取り組むべき問題だ。
次に鶴見は「現代支那の趨勢が、日支の關係に如何なる影響を及ぼさんとするか」を論じた。
古代帝国主義時代のように「一國が全世界を征服することを以て、理想とするならば」、日支両国は共に「征服國たり被征服國たるべくして、兩立すべき運命をもつて、ゐない」。国家組織に関する思想が根本変革した現代にあっては、じつは「支那日本を恐るゝことを要せず、日本も支那を畏るゝことを要しない」。つまり対等の関係ということだろう。
だが「日本は支那なくしては、經濟的に成立し得ない」ことは明白だが、「支那は果して、日本なくして存在し得ないか否かは、それ程明白ではない」。じつは支那は経済的ではなく、政治的に日本を必要としている。そこで浮かび上がってくるのが、両国は「共同の敵を有するか否かといふ問題である」。「ことに支那は、その生存を危くするものとして、日本より恐るべき相手を有して居るか否かといふ問題である」。
両国が現状のままの将来を考えているなら、互いに「根本的なる諒解提携を試む必要」はない」。だが「年々増加しつゝあるその人口の將來」を考え、「増加したる各個人に人間らしき生活の根據を保證せむと志す」なら、やはり両国は「今日のまゝに半呑半吐の關係に於ては、存續する」わけにはいかない。
じつは「我々は現代の世界に於ける、甚しき不正義について無關心であることは出來ない」が、「現代支那の形勢は、果してこの方向にむかつて進みつゝ」あるわけではない。
振り返れば維新以降の60年間、「新しき日本は餘りに忙しかつた」。「刻々戸口に寄せる外敵と戰ひつゝ、矢つぎ早やに國内秩序を造りあげねばならなかつた」。だから「世界に於ける日本の位置といふものを思索する餘裕がなかつた」。それは小国故の「缺點と失策」であり、「悠々と仕事を片附けてゆく餘地」のある「支那は之を諒としなければならない」。
だが「もう今日日本は一本立ちが出來る樣にな」り、「國家危急といふ口實のもとに、從來の樣な性急な一本槍な政治をすることは出來ない地位になつた」うえに、「世界の三大海軍國の一となつた」。幸か不幸か、「その時に支那に國難が來た」。しかも、「内外ともに差し迫つた困難な時期」だった。そこで日本が示した「一時的政策を見て、支那は之を日本の恒久的志望と誤解」し、「國難の標的は日本であると思つた」。すると「性急な日本が忽ちこれに應戰した」のである。
かくして「滿身創痍の支那は不必要なる敵を一人増加し、短氣な日本は味方を敵と變して精力を消耗し」てしまった。「この抗爭は兩國民の困難なる生活を一層困難にしたに過ぎなかったのである」。
「そのときに日本に變化が來」て、同時に「支那に根本的動揺が來た」というのだ。《QED》