来年1月の総統選挙へ向け、与野党とも公認の候補者選びがいよいよ激化してきた。
民進党は現職の蔡英文総統と頼清徳前行政院長が予備選に出馬しており、いまだ調整がついていない。
国民党も、鴻海精密工業の郭台銘氏が出馬宣言したり、韓国瑜高雄市長が「党からの指名があれば」などと含みをもたせる発言をするなど、こちらも混迷模様だ。
まだ出馬が不透明な柯文哲台北市長も、水面下では出馬準備をしていると噂されており、少なくともこの混乱した状況はもうしばらく続きそうだ。
総統選挙へ向け、各党が候補者選びにしのぎを削る。こうした状況を李登輝はどのように捉えているのだろう。
台湾が明確に中国とは別個の存在であることを守り続けてくれる候補者にこそ台湾総統の座に就いてもらいたいとは願いつつも、各陣営が侃々諤々の議論の末に候補者を絞り出す制度が確立されたことに、台湾の民主化を進めた老政治家は満足しているのではなかろうか。
◆次期総統候補が語った「李登輝の教え」
先日、日本を訪問し、首相経験者や多くの国会議員らと面会を重ねたと報じられた頼清徳氏だが、頼氏は「最高指導者は孤独だ。李登輝総統も、それはまるで観音山の頂上にいるようなものだと言っている。だからこそ、何かを決断するときに縋ることの出来る『強い信念』が必要だ、と教えてもらった」というエピソードを折々に話したと聞いている。
この「観音山」のストーリーは補足が必要だろう。
観音山とは、淡水の対岸である八里にある山のことだ。日本時代は「淡水富士」とも呼ばれ、淡水の夕陽とともにその美しさが讃えられ、「台湾八景」のひとつにも数えられた。余談だが、李登輝事務所はこの観音山を真正面に捉える紅樹林にあって、窓からはその雄姿を拝むことができる。
李登輝は、総統に就任して間もなく、この観音山へ家族とともにハイキングに出かけた。当時まだ幼かった孫娘も一緒だったというから、それほどきつい勾配ではなかったはずだ。しかし、600メートルちょっと、という標高であっても、頂上までたどり着いてみると、その場は予想以上に急峻だった。四方に寄りかかれるものが何もなく、その場所に立った李登輝は、恐怖さえ感じたという。
同時に「総統の地位はこの山頂のようなものだ。周りに寄りかかることの出来るものが何もないとは、すなわち誰にも縋ることが出来ないということだ。頼れるのは信仰だけだ」と悟ったという。
李登輝は常々、指導者たるもの信仰を持たなければならないと説く。李登輝の場合はそれがキリスト教だったが、信仰でなければ「強い信念」でもよいという。要は、孤独のなかで何らかの決断を迫られた場合でも、縋ることの出来る精神的支柱を自分の心のなかに用意しておかなければならないということだ。こうした最高指導者としての必要な心構えが、民進党内で予備選を戦う頼氏にとって大きな示唆となったのだろう。
この日、孫娘を後ろから抱きかかえた李登輝と家族の写真が残っている。この場で得た感慨を残そうとしたのだろうか、この写真をもとにした絵をスペイン留学から戻った画家の呉[火玄]三氏に描いてもらったが、李登輝夫人によると、構図の上で「邪魔だから」と、李登輝と孫娘以外の家族は削られてしまった、と苦笑いする。
このエピソードからは、台湾の最高指導者として、党内の抵抗勢力を抑え、どんな批判もかえりみず台湾の民主化への信念を貫き通した李登輝の強さが垣間見えるだろう。
◆李登輝が「総統直接選挙」を実現したワケ
そんな李登輝が民主化とともに推進した台湾の「本土化」の過程で、何を念頭に置いたかを表し、李登輝が好んで使う言葉がある。それが「脱古改新」だ。
「従来からの古(いにしえ)のやり方を捨て去り、新しく改める」という意味を一言で表したこの言葉は、文字通りそれまでの中国式のやり方から切り離し、台湾として全く新しくスタートさせるという意味を含んでいる。
李登輝が総統の座についたとき、台湾を取り巻く環境も、台湾内部も矛盾だらけだった。
台湾を統治しているのは中華民国だが、この中華民国はもともと中国大陸で成立したものだ。第二次世界大戦終結後、国共内戦に敗れた中華民国が国ぐるみで台湾に移転してきた。
しかも、李登輝以前の指導者は「いつかは中国大陸を取り戻す」ことを大義名分とし、台湾を戒厳令下に置いていた。
そのため、国の根幹である憲法は中国大陸を統治することを想定して制定されたものだったし、国の行く先を決める国会は、国家総動員法に相当する「動員戡乱時期臨時条款」によって改選が凍結されていたのである。
李登輝は台湾人として初めての総統である。それまでの蒋介石や蒋経国は中国人であり、中国大陸への「凱旋」を夢見ながら死んでいったともいえる。しかし、実際のところ、台湾はそもそも中国大陸とはなんの関係もないのだ。中華民国が一方的に台湾を自分のものにして居座ってしまっただけ、といってよい。
そこで、これらの問題解決に着手する際、李登輝は考えた。 「従来と同じ『中国』という枠組みのなかで制度を変えようとしても、それは根本的な改革にならない。これからの台湾に必要なのは、これまでの『中国』という考え方から脱して、全く新しい台湾を作り上げることだ」
李登輝は、従来の枠組みのなかで制度を変えていくことを「託古改制」と称した。古来から続いてきた制度を踏襲しながら、少しずつ改めていくということだ。しかし、台湾がいつまでも中国との結びつきを残したり、中国大陸の奪還にこだわり続けることは、台湾にとって無益だと李登輝は理解していた。
つまり、李登輝の発想は「『台湾は中華民国』という発想の出発点そのものを捨てる」ということなのだ。
であるならば、台湾がいつまでも中国式の制度を基盤としていては、それをどんなに改変していこうとも、決して中国式の枠組みを打破出来ないと考えたのである。
そこで李登輝が提唱したのが「脱古改新」であった。
これこそ、李登輝が台湾の民主化を進めるうえで念頭に置いた原則であった。
実際、中国には、歴代王朝によって「易姓革命」というものが行われてきた。中国史を見れば、武力によって王朝が倒され、次の新しい王朝にとって替わられることがたびたびあった。しかしそれは、天が地上を治めさせていた前王朝が徳を失ったがために、天が見切りをつけたことで現在の王朝に交代させられたのだという理屈である。
「易姓革命」が起きると、上から下まで、あらゆるものが新しい王朝に塗り替えられ、歴史さえも、後の王朝によって書き換えられることがままある。とはいえ王朝あるいは国家という点から見れば、歴代の王朝もまた、前王朝の制度を引き継ぎ、皇帝が君臨するという枠組みが維持されていったにすぎないのである。
このような中国式の制度がいつまでも維持されていては、国家というものを全く新しく生まれ変わらせることは出来ない。李登輝の頭のなかには「台湾を中国とは別個の存在にする」という青写真があったのだろう。それゆえに「古の制度は踏襲しない」と決意した。その答えが、国民が自分たちで台湾の行く末を決める民主化であり、自分たちの指導者を多数決で決める総統直接選挙の実現だったのである。
◆自由や民主主義は、天から与えられたものではない
李登輝は、自分が指導者の立場を受け継いだ「中華民国」という組織を改革の出発点にしなかった。従来の制度を踏襲していては、台湾はいつまでたっても単に中華民国を微調整したにすぎない「改制」にとどまり、台湾化への抜本的な改革たる「改新」にはつながらないと考えたのだろう。
今や台湾は、形式的にも実質的にも、中華人民共和国とは別個の存在であることは明らかだ。そして、台湾の有権者が、少なくともこの状態を維持していきたいという強い思いを持っていることは、各種の世論調査からも見て取れる。「中国と統一したい」という回答をする有権者はほんの僅かだからだ。
台湾の民主主義や自由は、台湾が中国と別個の存在であるからこそ維持される。この民主台湾を守り、深化させてきたのは台湾の人々の努力によるものだが、その基礎を築いたのは間違いなく李登輝だ。李登輝があらゆる知恵を絞り、強い信念を持って推し進めたからこそ実現した台湾の民主化なのだ。
現在、与野党問わず、総統選挙の予備選が行われている。候補者も有権者もどうか、「台湾と中国は別個の存在」という状態が、天から与えられたものだと誤解しないでいただきたい。努力し続けなければ維持していくことは出来ない、と肝に銘じてほしい。
それが、李登輝の存在なしでは実現しなかった、あるいは実現したとしてもまだ長い年月がかかったであろう、台湾の民主主義を享受する人々の、李登輝へのオマージュとなるのではなかろうか。
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早川友久(はやかわ・ともひさ)
1977年(昭和52年)6月、栃木県足利市生まれ。現在、台湾・台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業後、金美齢事務所の秘書として活動。2008年に台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフとしてメディア対応や撮影スタッフを担当。2012年12月、李登輝元総統の指名により李登輝総統事務所秘書に就任。共著に『誇りあれ、日本よ─李登輝・沖縄訪問全記録』『日本人、台湾を拓く。』など。