――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(6)
東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)
上海の繁栄に接した若者は英国の振る舞いに目を転じた。
「上海を開拓した時から英國の雄圖は實に驚くべきもので盛んに其の勢力の扶殖に從事した」。世界史から見ても「侵略的野心を持つて又成功したものは他にあるまい」といえる英国は、「支那に對してだつて」同じである。「最近長江貿易上に列國の勢力が入つて競爭が烈しくなるや英國は更に富源開拓の鐵道に投資し」、「長江を中心とする鐵道網の殆どすべてに英國の資本が入つてゐる」。「こんな具合で支那の鐵道と英國とは、最も緊密な關係になつてゐるが、英國の野心はいつも中々根深い」。
次に漢口における英国の動きを追った。
「一萬噸もある倫敦直行だと云ふ、英船アルピオンスターが、豚の冷蔵肉や、罐詰や、粉鶏卵などをシコタマ詰込んで居る。聞けば和記洋行と云ふ英國の會社は、此處でも南京と同樣製造所を設け、盛んに支那内地の食料を徴發して居る。萬里の波濤を超えて、支那の肉類を、ドンドン倫敦人の食膳に上して居るなどは、如何にも英國式の大きな處を示している。此外にも英國船は隨分多い」。
このように英国の動きを概観した後、「百年の大觸を忘れて眼前の利害に迷ひ易い日本人の大に學ぶべき事ではあるまいか」と、日本の若者として自問する。はたして日本人は本当に「百年の大觸を忘れて眼前の利害に迷ひ易い」のだろうか。その後の日本の歴史を振り返るに、「眼前の利害に迷」うことなく「百年の大觸を忘れ」ずに一貫していたと胸を張れそうにない。悲しい哉、大構想が見られない。そこに大いに問題があるのではないか。
たとえば「美しい日本」を念じるならば、その美しい「日本を取り戻す」ことこそが「百年の大觸」というものだろう。にもかかわらず、「日本を取り戻す」ことも、ましてや「美しい日本」すらも、口にしなくなった。すでに「美しい日本」を取り戻した。あるいは取り戻しつつある、と言われたらそれまでだが。
閑話休題。
「百年の大觸を忘れて眼前の利害に迷」ってしまった一例として、大冶鉄山にある日本製鉄所で技師として働く西澤公雄の実を結ばなかった孤軍奮闘の姿を挙げる。
「列強角逐の本舞臺たる、支那長江の沿岸にありて、しかも獨逸の先入勢力を驅逐し、英米の妨害を排除し、譎詐反覆常なく、讒謗中傷至らざるなき、支那人を相手に、終始一貫三十年、巍然として初志を變ぜず」して、ついに豊富な鉄鉱石を日本に向け送り出すことに成功し、「以て我鐵石炭問題の前途に光明を與へ」た西澤こそ、「支那及支那人に對して、我日本及日本人の採るべく進むべき道」を指し示すものだ。
「我が遣外使臣が、常に國民の期待に背き、無能の譏を受くるもの多き中に、たとひ純粹の外交方面にはあらずとも」、西澤は「時に公使館以上の重要なる役目を演じ」てきた。日本の将来を考える西澤は官民双方にさらなる鉱山開発を進言したが、彼らが「躊躇して居る間に、時勢は容赦なく遷つて、列強の利權獲得の野心に、覺醒せしめられた支那國民は、盛んに利權の保護回収を叫んで、或は鐵鑛國有を主張し、或は外力援助の反對を唱えふるに至つたので」、遂に新たな鉱山の開発・領有は断念せざるを得なかったというのだ。
確かに将来のことは判らない。だが「今にして思ふ、當時我當局に百年の大計を慮り、堂々たる製鐵所の損害の如きは顧慮せず、深く徹底的に、我鐵問題の解決に腐心努力する人物があつて、西澤氏と内外相呼應し努力する處あつたならば、國運の前途に更に一段の光明を認むることが出來たであらうと」。
本当に日本人は「百年の大觸を忘れて眼前の利害に迷ひ易い」のだろうか。《QED》