――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(2)大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1856回】                       一九・二・十

――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(2)

大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

 ハルピン訪問の目的は、「伊藤公の斃れし跡と�川沖二士の墓の跡も弔ふ」ことだった。

 通訳として伊藤に付き従い現場に居合わせ襲撃の一部始終を目にした庄司ハルピン満鉄公所長の話では、伊藤絶命直後、伊藤出迎えのためにその場にいた「露國大蔵大臣のコーコフソフ氏」の弔辞に「『プラットホームに立ち入りたることを禁じたるに、日本人の乞ひに由りて、許せり。罪は露國に非ず』との語ありたるが、東清鐵道にては、以前も今もプラットホームに立入ること勝手次第也。斯くて公は哈爾濱に著くと共に、死骸となりて長春に引返へせり」。だからロシア人の言うことを鵜呑みにするな、ということですよッ。

 ところで伊藤襲撃事件については、安重根の単独犯行説から複数犯人説まで“真犯人”をめぐって様々な見解が発表され、あたかもアメリカにおけるJFK(ケネディー大統領)暗殺事件と同じように、今になっても真相は闇の中だ。

 数年前だが犯行現場で「腕を押へられながら猶發砲せしが、短銃をもぎ取られて、顔を地にすりつけられ」た安重根が収容されていた旅順監獄跡を訪ねたことがある。個々の獄房は狭く環境の悪さは容易に想像できたが、安重根が過ごしたとされた獄房を見て驚いた。机が置かれた個室は広く、日当たりもよく、窓は大きい。そのうえ医務官室の隣である。

中国人見学者に向かって「反日の英雄である安重根は日本帝国主義者から手酷い取り扱いを受けていた」などと説明していたが、あの場で目にした限りでは、安重根は一般の犯罪者とは格段に違う好待遇を受けていたように思えた。監獄管理者が独断でそうした措置を取れるわけがないはず。だとするなら政治的か、人道的かは別にして安重根に対する日本側の一定の配慮が感じられた。構内の一角に残る元絞首刑場の天井からは太い麻縄がぶら下がり、踏み板の下には刑死者の死体を納める直径60�で高さ1mほどの木桶が置かれていた。安重根の死体も受刑仲間の手で桶に納められ、塀の外に運び出されたのであろう。

大町に戻る。

 翌日、凍った路面を馬車を走らせ、厳寒の広野に立つ「�川、沖二士の墓に詣づ。墓は小高くなりて、小さき鳥居あり。煉瓦石の段に石塔立てり。『護國神社』と記せる木標も立てり。(中略)嗚呼�川、沖の二士は、此處に銃殺せられ、此處に葬られたる也」。

 敵地奥深く活動する「�川、沖の二士」の許を訪れたのが、蒙古のカラチンで日本語を教えていた河原操子だった。

 ここで、再び大町を離れ河原操子の人生を辿るも一興かと。

「明治三十三年の夏、長野県の県立高等女学校に職を奉ぜし時のことなりき。宿痾漸く癒えて、身は再び自然の健康を楽しみ得るに至ると共に、厚き氷の下に暫く閉じ込められし我が宿志、即ち清国の女子教育に従事したしとの希望は、暖き春の光に浴せし草木のごとく萠えそめぬ」(『カラチン王妃と私』河原操子 芙蓉書房 昭和44年)と、数奇な人生を歩き出す。かくて運命の糸に引かれるように上海を経てカラチンへ。その先のニューヨークには全く新しい人生が待っていた。

 明治教育界の重鎮である下田歌子の知遇をえた操子は、横浜の華僑子弟が学ぶ大同学校を経て上海に赴き、「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校の上海務本女学堂に奉職する。

「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」。深窓に育った女生徒たちに体を動かすことの意義を教えようとしたはず。だが彼女たちは「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。おそらく河原にとって纏足は鮮烈な異文化体験となったに違いない。《QED》


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