――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(5)大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1859回】                       一九・二・仲六

――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(5)

大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

満洲の名勝古跡を歩いて異なことに気づく。「日本人の多く行く處は、日本人を優待するかと思ひしに、事實は反對にて、日本人の多く行く處は、日本人を虐待し、日本人の稀に行く處は、日本人を優待する也。多くの日本人の中には、名所を荒らすものもありと見えたり」。

乃木大将の「金州城外立斜陽」で知られる金州の西門外で「清國軍人戰亡碑」を弔う。「日清の役、我軍にて支那の戰死者をこゝに葬りて、この石碑を建てける也」。裏面に「大日本大山大將茨木少將建明治二十八年五月穀旦」と刻まれていたはずが、「『大日本』、『大山』、『茨木』の文字は、石にて打潰されて、幾んど辨ずべからざるようになれ居れり」。戦勝の後、この石碑を建てると共に、「支那の戰死者の爲めに法會を営みける」にもかかわらず、である。「石にて打潰」すとは腐れ切ったひねくれ根性なのか。はて復仇への執念なのか。

大町は時に朝鮮服、時に支那服を着た。満鉄の列車に朝鮮服やら支那服で乗り込むと、ボーイが乗車を妨害する。「豫期せしことゝて、驚きもせず、又腹も立たず。唯眞の朝鮮人や支那人が氣毒千萬と思ふ也。(自分の経験からしても)我同胞は朝鮮人を輕蔑し、支那人をも輕蔑す。輕蔑するのみならず、虐待す。慨かはしきこと也」。

帰路に耳にした朝鮮婦人の囁きを、通訳は「君を支那人と見て、胡人と云へり。朝鮮人は支那人を目にして、表面上は大國人と云ふも、蔭にては胡人といふなり」と伝える。これを面従腹背というのだろう。

1950年から3年ほど続いた朝鮮半島で共にアメリカ帝国主義を敵に戦った2つの独裁国家は、いまになっても「中朝両国の血の友誼」の金看板を下ろそうとはしない。だが民衆は正直である。

かつて大連で、極秘訪中していた金正日将軍サマのゴ巡行に出くわしたことがある。街は厳戒態勢で、夕暮れのラッシュ時にもかかわらず幹線道路は1時間以上前から完全ブロック。秘密裡のはずが歩道は黒山の人だかり。暫くすると、前方からパトカーに先導された60台を超える車列が猛スピードで通過する。車列半ばを走った10台ほどの大型黒塗りベンツの1台に将軍サマが鎮座ましましていたようだ。車列が視界から消えると、歩道の人だかりは崩れる。隣り合わせた20歳前後の娘が「厄介な国の厄介なヤツ」と吐き捨てた。

中国人嫌いを正直に吐露する朝鮮人もいた。筋金入りの革命家であるキム・サン(金山)こと張志楽(1905年~38年)である。毛沢東が党内固めから反転攻勢に転じた頃に延安入りし、抗日軍政大学で物理・数学・日本語・朝鮮語などを教えていた。

彼は自らの人生を語った『アリランの歌』(ニム・ウェールズ、キム・サン 岩波文庫1995年)で「中国では澄んだ川や運河を見たことがないのです。私たち朝鮮人は朝鮮の川で自殺するなら満足だというのですが、中国の川はきたなくて、そんな気になりません」と呟き、「自分たちがもうかるというのでなければ面倒を避けたがる中国人の性格を承知していた」と語り、「中国は無法律だ」と断じている。逮捕に来た官憲に対し無抵抗の中国人同志を前に「なぜあほうみたいにつっ立ってる? 卑怯者め! なぜ逃げないんだ?」「朝鮮人ならこんな時絶対にあきらめない」と怒声を挙げたと、苦々しく語っている。

彼を援助し続けた兄は、「われわれ朝鮮人はすべて理想主義者であり、理想主義は歴史を創り出す。中国人はあまりにも拝金主義者であるためキリスト教民族とはなれず、やがてその物質主義のため亡びるであろう」と諭し、彼を中国に送り出した。

大町に戻るが、彼は朝鮮婦人の態度を論うこともなく「匹婦なほ恕すべし」と。一転して「内地の紳士にして、蔭にて朝鮮人をヨボといふ者はあらずや」と問うのだ。《QED》


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