――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(4)大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1858回】                       一九・二・仲四

――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(4)

大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

 吉林で孔子廟を訪れた。孔子像を祀る「大成殿は鳩の住居となりて、その糞、幅十八間、奥行八間ばかりの殿堂の床一面に充滿す。(中略)詣づる人なく、祭祀全く絶えたる有樣也」。やはり満州でも孔子の教えなど屁の役にも立たない、ということだろう。

「滿洲の野は廣けれども、支那人開き盡して、山上に及べる也」と大町を驚かせた漢化の波は、蒙古にまで及んだ。

「南滿洲の野は到る處、開墾せられて、畑となれり。山までも開かれたり。勤勉なる支那人は、更に鍬を執つて蒙古に進めり。遊牧の地、次第々々に畑となれり。蒙古人は次第々々に退けり。(中略)踏みとどまれる蒙古人は支那化して、衣服も家屋も全く支那風なり」。言葉と言えば「支那語を用ゐるものもあるが、蒙古語を用ゐるものもあり。滿洲語は既に亡びたるが、蒙古語はいまだ亡びざる也」。

蒙古には蒙古語がわずかに残るが、すでに満洲には満州語なし。イデオロギーではない、漢族が生まれながらに持つ漢化の力というものだろうか。漢化、恐るべし。要々注意。

たびたび大町を離れるが、ご容赦願いたい。

満洲に満州語がなくなった背景に、北京に都を定め八旗――万里の長城以南の中国本部に住む圧倒的人口の漢族を軍事制圧するための駐屯軍――と共に大量の満州族が満州を離れる一方、人口が希薄になった満洲に喰いっぱぐれた漢族の大量不法流入が始まった点も挙げておく。八旗を先頭に満州族自らが漢族の人の海に呑み込まれ、民族文化を失った。

八旗が万里の長城東端を固める関所の山海関を破り南下し北京を押さえてから80年ほどが過ぎた雍正2(1724)年、雍正帝は「八旗官員等を諭」し綱紀粛正を厳命した。そこには「清朝創業の始めを思い起こし、歌舞音曲に現を抜かし、博打やら芝居に興じ遊び呆けることなく、武芸の操練に励め」とあるが、「清語」の学習も怠るべきではないとの一項も加えられている。清語が満州語を指すことはいうまでもなかろう。

時代が下った嘉慶11(1806)年、嘉慶帝は風紀を乱す八旗高官の処分に関して、「昨日、召見したが、軍人の本分である乗馬や射撃の稽古を怠り、滿洲語に至っては全く通じない」と嘆き、新疆ウルムチへの流刑処分の再考を促している。それというのもウルムチでも漢化が進み、まるで中国本部の都市のような賑わいを見せ、京劇公演も盛んである。そんな場所に流刑したところで監視の目は届かず芝居小屋に入り浸るのが関の山であり、流刑の意味をなさない、ということだ。早くから漢族は新疆にも押し寄せていたのである。

ここでまたまた大町に。

龍泉寺を訪れると境内で奇妙な碑文を目にする。日清戦争に一軍を率いて参戦した除慶障なる人物が自らの“軍功”を誇って建てたものらしい。

「支那人はよくよく名を好む人種と見えたり。日本人ならば軍に勝ちて功ありとも、自ら碑を立つるものなし。除慶障の如きは我が本國の軍敗れて不利の局を結びたるにも拘はらず、たゞ己れだけが進軍せず、從つて敗れざりしことを誇る。その心理作用は到底日本人の解する能はざる所也」。

除慶障は戦場に馳せ参じて勝利したわけではない。ぐずぐずして進発しなかった。その間に清国は敗れ、彼らからすれば不利な条件を呑んで和議(馬関条約)を結ばざるを得なかった。にもかかわらず除慶障は戦場では「敗れざりしことを誇」る。やはり「その心理作用は到底日本人の解する能はざる所」というものだ。戦わないのだから勝利も敗北もない。「敗れざりしこと」は当たり前だ。だが、それすらも誇ろうというのだから、やはり彼らに対した時には「その心理作用」を十二分に弁えておくべきを忘れてはいけない。《QED》


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