――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(12)河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1854回】                       一九・二・初六

――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(12)

河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)

芥川は「君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」と訝しがる。だが、すでに村田は「あの騒々しい所」に忘我の態なのだ。完全に「刺戟性の頂點」に嵌まってしまっていたのだから、芥川、いや普通の日本人のモノサシで測れば、どう考えても「正気」であろうはずがない。だが忘我の境に芝居見物の醍醐味があるのだから、もうどうしようもない。バカボンのパパに倣わずとも、「それでいいのだ」。

半世紀ほど昔の香港留学時代に場末の京劇小屋に日参して以降、ひたすら「戯迷(しばいくるい)」の道を求め続ける我が身から言わせてもらうならば、村田の「あの騒々しい所がよかもんな。」の呟きには、もろ手を挙げて賛成する。「あの騒々しい所」に馴染めないなら、やはり京劇の神髄を味わうことなどできはしない。もっとも「京劇など舞台芸術としては下等だ。見るに値しない」と言われたなら、取り敢えず反論はしないでおこう。

かりに村田を「刺戟性の頂點」に嵌まってしまった日本人の典型と捉えるなら、研究室で地酒に喉を潤わせ、ほろ酔いかげんの粋な着流し姿で教壇に立つ――こんな伝説を生んだ青木正児(明治20=1887年~昭和39=1964年)は、かの民族の体に染みついた「刺戟性の頂點」を一種冷ややかな視線で眺めた稀有な日本人だった。

大正11(1922)年に長江下流域に遊んだ青木は『江南春』(平凡社東洋文庫 1972年)のなかで、「(支那芸術は)まさに韮のようなものだ。ひとたびその味わいを滄服したならば何とも云い知らぬ妙味を覚える」と説く。つまり村田は芝居小屋で「ひとたびその味わいを滄服し」てしまったからこそ、「刺戟性の頂點」に「何とも云い知らぬ妙味を覚え」たというわけだ。なお原文では「滄」は「にすい」ではなく「さんずい」が使われている。

青木は続ける。

「韮菜と蒜とは、利己主義にして楽天的なる中国人の国民性を最もよく表わせる食物なり。己れこれを食えば香ばしくて旨くてたまらず、己れ食わずして人の食いたる側に居れば鼻もちならず。しかれども人の迷惑を気にして居てはこの美味は享楽し得られず。人より臭い息を吹きかけられても『没法子』(仕方がない)なり。されば人も食い我も食えば『彼此彼此』(お互い様)何事もなくて済む、これこれを利己的妥協主義とは謂うなり」。

青木が「利己主義にして楽天的なる中国人の国民性を最もよく表わせる食物」と説く「韮菜と蒜」は、河東が嫌悪感たっぷりに綴った「刺戟性の頂點」に通じているように思う。

閑話休題。話を河東に戻す。

河東はある皇帝の陵の周囲を見回して驚く。「そこらにある穗が、もう疾うくに刈り取らねばならない枯れ切っ」ているにもかかわらず、遥かに向こうまで「其の熟麥はつゞいてゐる」。だが「誰一人刈らうとする者もなければ、鎌を磨いでゐる民家もあたりにはみつからない」。このままでは立ち腐れてしまうであろうものを、収穫の手を動かさない。「収穫を疎かにすることは」、はたして「刹那に生きる心理の反映なのだろうか」。

そんなことを考えている河東が乗った馬車の横を「馬車と競爭して驅ける子供が二人ある」。「太爺、太爺(ダンナ、旦那さん)」と声を掛けながら、「髪を振り亂し、肌をあらはにして、息を切つて」どこまでも追いかけてくる。乞食だった。その姿を見るに堪えられなくなった河東は銅銭を投げ与える。そして、こう考える。

「貰ふことには勞力を吝まない、そこにありたけの執着心を持つ支那人であるから、麥の立ち腐れにも無關心で過ごし得るのだとの解釋もつかんではない」。彼の民族は「貰ふことには」執着するが、汗水たらす農作業には「無關心で過ごし得る」ということだろう。

「暗い理窟ッぽい變に堅くるしい」南京を最後に、河東は支那の旅を閉じた。《QED》


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