――「支那はそれ自身芝居國である」――河東(4)
河東碧梧桐『支那に遊びて』(大阪屋號書店 大正8年)
景勝地の杭州西湖に向かう汽車の旅である。
「列車のボーイのついで呉れたビールには一向泡が立たない。飲んでも苦い許りの氣の抜けたものだ」。それもそうだろう。「人の飲みさしたビールを集めて、それを一杯にし、いゝ加減に口栓をして、新しいものゝやうに装」っているのだから。だが、その程度のことは「支那人根性では何でもない事だつた」。
西湖をはじめとして杭州各地に在る“由緒”に満ちた名勝古跡に遊ぶ。
「青史を血に染めた悲壮な事實も、高風に萬世に仰がるゝ飄逸な傳説も、今の支那では遺憾ながら何の興趣も惹かない、故跡の外形は殘存してをつても、故跡の感味は疾くに泥土に委してゐる」。かくして河東は「過去の史傳の敎へた強烈な感味と、現在の故跡の示す落寞たる光景の餘りにかけ離れた相違!」に驚き、「それを仔細に觀てゐるに」耐えられず、「うら悲しく涙」する。そして「觀るに堪へない落寞たる故跡など、もうどうでもいゝことになる」わけだが、それにしても「今日の支那人は人間として持つべき一番大事な餘裕を忘却してゐる」とも感じている。
「今日の支那人は人間として持つべき一番大事な餘裕を忘却してゐる」との言葉は、河東の感懐から1世紀以上が過ぎた現在の中国人にも当てはまるように思う。「狭い日本、そんなに慌てて何処へ行く」といった安全運転のための標語があったが、それに倣うなら「そんなにだだっ広い中国、そんなに慌てて何処へ行く」「中国人、そんなにカネ稼いで何をする」。些かの脱線だが、「YOUはどうして総書記に?!」と言いたいところだ。
とある古刹へ。仏殿に安置してある釈迦三尊は「たゞ金色燦爛たるのみで、近代支那に藝術のない好標本をしめすものだつた。一體近代支那には人爲の藝術の無い許りか、天然の藝術的現はれの一部さへが破壞されて顧みられてないのだ」。何処に行っても「百年前後の樹齡を保つてゐる高齡の樹木の容易にみつからない」。「高齡の樹木許りではない、今日の支那には野にも山にも、先づ先づ樹木らしいものゝ無いのが普通」というほどに自然破壊が進んでいたのである。
たとえば「上海を出發して杭州に行くまでは、支那北方の大平原の餘勢をうけた限界のない野放圖な平野」である。「水にしても、長江であれ太湖であれ、二六時中たゞ黄泥を染めた」ように、ともかくも無味乾燥極まりない自然環境である。天下の景勝地で知られる西湖にしたところで、じつは「際涯もない大曠野」のなかにポツネンとあるだけ。だから、そこに「我々の親しんでいる日本の湖水の事を想起」することなど出来はしない。だが、そんな西湖であったとしても、「先天的に山水に対する粗食、粗食より饑餓を餘儀なくされていゐる人達が、こゝに歡喜の聲を揚げたと言つて、それは笑ふべき事なのだらうか、それとも痛々しい同情に値する事なのだろうか」。
次いで寧波へ。
「一望見渡す限り」が「手づくね位の小山」である。「行く手を見ても、過ぎ去つたうしろを振り返つても、たゞ其の小山許りが、累々としてゐる」。なんとそこは「驚くべき共同墓地! 眞に驚くべき土饅頭の數だ」。そこで考える。「支那人の死亡率が、どれ程餘計であるにしても、又たどれ程古い歷史をここに印すにしても、これ程の土饅頭を並べ立てることは容易のことではない」と。
「自分の田であらうが、人の畑であらうが、方位の許す所に、柩を置き放しにする。それを邪魔だとも不縁起だともいふ者もない程に習慣になつてゐる」。かくて「個人――利己に徹底してゐるとも見られている支那人は、亦た墓地にも徹底してゐるの」である。《QED》