――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(5)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目黑書店 昭和13年)
洛陽駅で「少し高いとは思ひながら」も5銭で新聞を買って読んでみた。「どうやら前に見たことの或る記事だらけ」。そこで日付をみると「四、五日前の古新聞」。しかも値段は「一枚二錢と明記せられてゐる」とは・・・嗚呼、ナサケナイ。
北京の古跡でのこと。案内すると着いてきた守衛が「樓上の影暗いところに參りますと、入場の際にはお錢はいりませぬと斷つた」にもかかわらず、「笑顔を作つてそつと手を出します」。そこで「此は常の事だから思つて、財布つ中から四五錢出して渡さう」とした。その瞬間、別の仲間がやつて来た。すると、先に付いてきた守衛が間髪を入れずに「聲も高々と『お錢は入りません、お錢は入りません』と」。そこで諸橋は「よくも恥しくもなく言ひたものだとつくづく氣の毒に感じました」と。普通なら腹を立てるだろうが、「氣の毒に感じ」るところが諸橋流というのか。
どこでも街の道幅は狭い。初めから狭いのかというと、そうではない。道の一方の側が「一寸誤魔化す」。すると、もう一方の側も「一寸誤魔化す」。これを繰り返すうちに「人が皆やればやらぬ者が損だといふので、とうとう仕舞ひには正直な人さへ」誤魔化す。かくして道幅は狭くなる一方だ。そこで道路は「成る程新しい町より舊い町の方がせまいやうに感じる」。
「虛僞」の次は「自衞」である。
「支那の人の自分を守るに嚴重なことは可笑しいほどであります」。周囲は厚い煉瓦壁で、窓は極端に少なく、入口のカギを占めれば完全密閉。外からも入れないという家の構造は、「いづれ防禦を目的として作つたものに相違ありません。窓の小さいのも同じく外敵を防止する一つの方法でありませう」。地震や台風の被害を考えた日本の家屋と違い、やはり「支那の家屋は火事と盗賊を防ぐ爲に出來てゐる」。「町や村は家の大なるものであ」って、周囲を高い城壁で囲み、「東西南北の城門は出入りの人を嚴視して居」る。「城といふ同じ言葉でも支那は日本とは意味が違ひ」、都市全体を意味する。こういった家、村、町、都市、大都市に共通する外敵の侵入を防ぐための構造を「擴大して國家全體を一つの守禦下に置かうとしたのが秦の始皇帝でありま」す。
家の壁を厚くするのは、「是も一つの自衞の一方でありました、田舎にまゐりますと今でも壁を破つてお錢を出す家があるさうであります」。そういえば1970年代半ばのカンボジアで森の中から出現した共産勢力のクメール・ルージュがプノンペンなどの都市を制圧すると、先ず華人商店などの壁を破壊した。こういった行為を、当時の我がメディアは「都市を知らず都市生活を憎み、都市の破壊を目指す共産勢力の蛮行。無知がさせるアホな行為」などと揶揄の口調を込めて批判していたが、じつは彼らは野蛮でも無知でもない。華人商店の壁が財産の隠し場所であることを十二分に承知していたのだ。無知はどっちだ。
「地圖を土匪にでも見附けられ」て襲撃でもされたら大変だから、まともな地図がない。「今でもなほ田舎の旅館には夜具も布團も貸しませんが、もとはといへば旅客に持ち逃げされるのを恐れての事だと申します」。上海が発展しているのは、生命財産を自己防衛できないことを悟った連中が「外國の力の下に其の庇護を受け入れようとすることから來た結果に外ならない」。
要するに「支那の國民は(中略)極端な自衞家であり、また可なりの虛僞家であります」。「面從腹背はいふまでもなく虛僞」であり「形を異にして質を同じうした自衞であり」、これこそ「破れたる國の中に生存する國民の積極消極二面の工夫」である。彼らの個人主義は「自衞を主とした主張」であり、形式主義は「虛僞を餘儀なくした方法」となる。《QED》