――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(3)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)
最高学府の北京大学では蔡元培が音頭を取って「進�會といふ修養の會」が組織されたが、参加資格の1つが「不賭」だという。「日本に於いては無上の恥辱として退けられるその同じ言葉が、支那に於ては時宜に適した切要な箴言として迎へられるといふ事は、同文善隣の支那帝國の一大恥辱」というべきだ。つまり最高学府であっても教授から学生まで博奕は日常生活の中に組み込まれているということだろう
。
「支那の制度の不統一無秩序には、實際閉口せずには居れません」。ともかくも貨幣制度から言葉、それに生活の仕方までがテンデンバラバラ。乞食にしても人力車夫にしても、無駄に時間を過ごすばかり。「何か生産的な職業もありそうなものだと、つくづくあきれました」。使われるべき人力は空費されるばかりである。
だが「既に精力の空費になれた支那の人は、一面又無意味なことをやつて平氣で居ります」。「一つ一つの事其自身さへ全然無意味なことをして怪しまぬ支那の人でありますから、況して一つ一つの事自身に意味があれば、其の相互の矛盾撞着から生ずる全體としての無意味、勢力空費といふやふなことは存外平氣な茶飯事として甘受するのであります」。
かくして「破れたる國の無形の俤は、この邊に最も多くあらはれて居ると思ひます」。
この「破れたる國」では「成るべく上下貴賤の區別を明瞭にして、其の間の懸隔を大にしやうといふのが、支那國民の一面の心理と思はれます。又事實上下貴賤の甚だしいのが支那國民の生活の實状であります」。やはり「支那の貧民は慥に日本の乞食以下の汚い風采をして、慥にそれ以下の生活を營んでゐると思ひます」。「おそらくは四億の支那人中、二億くらゐはこんな状態に居るのではありますまいか」。
次いで諸橋は墓の観察に移る。なぜなら「墓を見ることは支那研究の一つの方法」と考えるからだ。
漢口で「純粋支那式の小學校」を見学する。「�場の後ろの方に二つ三つの棺が重ねられて居ります。�場に棺桶といふことは一寸われわれ日本には見られぬこと」だが、その理由は「若し萬一のことがあつた場合に、棺の用意が整はぬとあつては名�にも關することだから、豫めこの通り用意をして置くのだと云ふこと」だ。「兎に角嫁入り仕度よりも葬送のしつらひに多くの注意と費用とを用ひることは事實であらうと思はれます」。
上海でも蘇州でも、郊外に出ると「其處には畑の中に無數の土饅頭が見えます。或るものは徑十間もありませう。或るものは五間もありませう。或るものは一間に足らぬと思はるるものもあります。此は悉く人の墓でありまして、古墳累々といふ句は靜かに其の實況を示して居ります」。
それはそれで異様な光景としかいいようはないが、「殊に旅客にとつて異樣に感ぜられる事は、生々しい棺桶が其のまゝ畑の中に置かれてある事であります」。年を経た棺は「風雨に露されて、中から腐肉がたゝれ出て、臭氣鼻を衝く事がある」そうな。「狐狸之を食ひ蠅蚋?之を食ふといふ孟子の言葉は、誠に實況を寫したものでありませう」。3年間は土で蔽わない習慣という。だから「多數の墓地の粗雜不手入れは、言ふに堪へない甚だしい程度」であり、「祖先崇拝の國民として、墓地には最善を悉くさうといふ考がありながらも、何とこの體たらく」ということになる。
墓の体裁はもとより、収入の面はもちろんのことだが、「思想の上でも制度の上でも」、「支那人の生活に極端な懸隔」がある。「極端な自由民本主義」もあれば「極端な舊弊を守るものがある」。「各方面に両極端の存するといふことは、統一整正を要すべき國家に對しては、矢張り『破れたる俤』を宿す原因では無からうかと思はれる」。徹頭徹尾の「破國」。《QED