――「全く支那人程油斷のならぬ者はない」――(中野10)
中野孤山『支那大陸横斷遊蜀雜俎』(松村文海堂 大正二年)
「東洋啓發を以て天職とする我が日本」を掲げての旅ではあるが、中野の筆は天下国家よりも市井の人々の営みに向きがちだ。たとえば「蜀犬」である。
四川では多く犬が飼われていて、「毎戸五六匹づゝ飼ふは通例であらう」。野犬も多いし、病犬もごろごろしている。主には番犬としてだが、掃除用でもある。では、どのように掃除用に使うのか。
「蜀は清國第一の清潔の都であるが」、「糞便を所きらわずする奴が多いが直に犬が食ひ盡してしまふ」そうだ。「一人の苦力が大道で糞をして居れば二三十匹の犬は四周にまつてゐて、まだ煙の出てゐるのを競爭して食い去る」。だったら街はキレイなはずだ。
中野は市中を散歩している際に、「嬰子を母親が抱いて大便をさせて居」る現場に出くわした。「赤子の大便がすむと母親が、其の赤子の尻を待ちかまえて居た犬の方に向けると、犬のちょろちょろと走り寄りて、赤子の肛門を一舐り二舐りぺろぺろと舐るのを待ちて赤子を抱き去る」。残された犬はというと、「又ひりをとした赤子の便を舐り盡して、得々然として去る」のであった。どうやら「尻を拭ふの不便と、布片や紙片を尻拭に使ふ不經濟を犬のために免れてゐる」。そこで「澤山居る所の犬も粗末の扱は受けないで大に優遇されてい」るということだ。
「兎角緩々慢々の風」である「支那の人」については、「緩々慢々」に振る舞えば「萬事好成績を見さうなものであるが、國土は老大にして活力を失ひ、五億の人民は世界の文明に遲れて野蠻の民に化せんと」している。「實にあはれではないか」。たしかに「昔は中華、中國と稱へ盛大を極めたるも、今は日一日退歩の境に陷りつゝある」ではないか。「到底救ふべき手段は盡てゐるのである、孔孟再び出でなば兎も角、現今の情態では孔孟の再出することなど夢想にもない」。
たしかに「夢想にもない」わけだが、では、そんな劣悪な状況をどのように「啓發」しようというのか。その道筋が一向に見えてこない。
中野は四川人の「交際術」に注目した。
彼らは「實に交際上手丈あつて、人物の觀察や、談論の掛引きは、巧妙なるもので虛誕の談をなし、漫然と相背いて更に怪しまない」。「其權謀術策、眞僞混合の談話中、相手の弱點を握り、或は操縱し、或は踏臺とし、或は離間する等、其交際たる多くは自家の利便を計らんとする一種の意味ある交際多きを以て、之を術とするのである」。
それでは、こういった交際術を駆使する彼らに対抗するためには、どう振る舞うべきか。「眞面目を假装し、虛禮を敢てし、毫も自個の弱點を暴露せず、豪然と威嚴をたもたねばならぬ」。だから下の下策は「和易、卒直、温順、親愛の態を以てする」ことだ。「妄りに言を信じて匆卒事に從」うようなことがあってはならない。そんな態度で応対したら、「與し易しと益々禮を厚くし、言を甘くし、頗る我を誘ひ、穽中に陷入するの詐計をなす」ものだ。やはり「實に侮るべからざる」のである。かくして「我が同胞にして詐計に穽り、不覺を嘆じたるものも幾人かゐる」から、断固として「注意警戒すべきである」。
「其權謀術策、眞僞混合の談話中、相手の弱點を握り、或は操縱し、或は踏臺とし、或は離間する等」の術策を弄する彼らに対し、「東洋啓發を以て天職とする我が日本」は「眞面目を假装し、虛禮を敢てし、毫も自個の弱點を暴露せず、豪然と威嚴をたもたねばならぬ」。「妄りに言を信じて匆卒事に從」うな――中野の忠言の“核心部分”といえる。
官民を問わず現在まで続く日中交渉の歴史を振り返った時、我が方は「和易、卒直、温順、親愛の態を以てする」ことに主眼を置き、「其權謀術策」に翻弄され過ぎたのだ。《QED》