――「支那の國ほど近付いてあらの見ゆる國は無し」――關(5)
關和知『西隣游記』(非売品 日清印刷 大正七年)
關は青島を訪ね、山東におけるドイツの行動を考える。
「物質的、利己的、野卑的なる獨逸人」であるが、彼らは不毛の地である青島を自然豊かな地に作り替えた。青島は「彼等の手によりて始めて其の自然美を發揮したるものなりと云ふに至つては更に驚く可きに非ずや」。「獨逸が極東に於ける耽々たる野心は、露國の旅順大連、英國の威海衛に對して疾く既に眼を膠州湾に着し、幾度か軍事的、經濟的調査をを試みたる後」に、1897年11月に山東省曹州で発生した宣教師殺害事件を口実に「カイゼル一流の外交を以て、北京政府を強壓し」て膠州湾一帯の租借権を手に入れ、「山東内地の開發を圖り、依て以て青島をして東洋に於ける獨逸の新植民地、文明的標本、政治的策源地、經濟的中心點たらしめんと期した」のである。
かくして關は「獨逸の青島經營は日本にとりて極めて重大なる意義を有せり」となる。それというのもカイゼルは日本を「潜める惡魔」と見做し、ドイツ国民に向けて「朕は近き將來に於て日本を戰はざる可からず」と「絶叫」していたからだ。かくして第1次世界大戦が勃発し、「彼が期待したるが如く日獨の宣戰を見るに至」ったことになる。
ドイツの植民地行政は「極端なる制裁を以て人民を懾服せしむる一方に於て頗る温和懇到なる懷柔策を施し所謂威を以て服し、恩を以て懷くる手段に出でたる爲め、山東の支那人は獨逸の畏るべきを知ると同時に又其の安じて倚るべきを知るが故に」、第1次世界大戦の戦闘の結果として退去した後も、山東にはドイツの「流風遺澤」が残っているのだ。
こんなドイツとは対照的に日本は、「朝に軍政を解きて民政を布くと思えば、夕に支那政府の抗議に由りて忽ち民政を撤回せんとする」ようなテイタラクだ。このように「定見無く威信無き我が政府者の所爲は、徒に土民の反感と輕侮とを招くに過ぎず」。たしかに「攻城野戰能く敵を破り地を奪ふは我軍隊の力、或は獨を凌ぐべし」。だが「獨り拓地安民巧に治を布き化を施すは我が爲政者到底及ぶ所に非ず」。そこで「慨すべき哉」の声を挙げる。
奉天では奉天督軍張作霖に会ってみた。
「彼が殆ど無�育なるに係はらず、部下を制御し威信を一方に保つを得る」のも、「質直豪快傍人無きが如くなる、此の膽氣」があるからだ。「咄嗟の應酬、客を外さぬ才幹」を持ち、「強悍悛刻、機を見るの敏、事を斷ずるの勇は、支那隨時の政變に處して能くその向ふ所を誤らざるに證すべし」。加えて「政治家としては如何に幼稚なる支那と雖も、以て中原馳鹿の逸材と稱すべからず」。「日露戰爭以來日本の實力を知ること最も深き一人なり」。「直接日本と接觸するは彼が以て一種重きを北京朝廷に爲す所以」であり、「日本を背景とする彼が獨得の壇場と謂ふ可し」――と。
おそらく張作霖に対するベタ誉めが、後に回り回って張作霖爆破事件の伏線となったのかもしれない。それというのも、当時の日本人は張作霖の“人たらし術”に翻弄されたからなのか。俗にいう可愛さ余って憎さ百倍、というヤツか。
中野正剛も指摘していた満洲における「三頭政治の弊」は改善されることはなかったようだ。たしかに関東都督と満鉄総裁とは同一人物が務めることにはなったが、「滿洲政治の實際は舊の如く」で「同胞移住民の不便尠からず」であるゆえに、「須らく根本的且實際的統一を望むは滿洲一般我同胞の輿論なり」。であるからこそ「支那人に一種の不安と疑惧とを與へ我が滿蒙經營の大局を紊る、延て日支の親善を害すること大なり」となる。
關はドイツの山東経営を讃える一方で日本の満洲に危惧の念を強く抱く。「威を以て服し、恩を以て懷くる」ドイツに対し、出先においても本国における行政上の縄張り争いを続ける日本。この辺りに「徒に土民の反感と輕侮とを招く」要因があったのだろう。《QED》