――「全く支那人程油斷のならぬ者はない」――(中野11)
中野孤山『支那大陸横斷遊蜀雜俎』(松村文海堂 大正二年)
「�育は、近年長夜の夢を破ったばかりで之れぞと、見るべき點は何もない」としたうえで、「清國�育の宗旨、即ち本旨目的」は「忠君、尊孔、尚公、尚貴、尚武此の五つ」であるが、実際には「第一尊孔」であり、「忠君」と「尊孔」とが逆転している。それというのも、「易世革命の國であるから、人民が氣にくはぬ奴だと思へば、何時にての腕力に訴へて、君主を易置するを得るので、君主專制國とは謂ひながら、君權は實際極めて輕いのである」。これに対してして「孔子は無冠の帝王で」あり、「恰も支那の孔子にあらずして、孔子の支那たるの感がある」からだ。
実際に四川で教壇に立った中野は、「授業中でもお搆ひなしに、矢鱈に唾を吐き、手鼻をカミ散らすので、神聖なる�室は、嘔吐の巷となる、驚くなかれ、支那では、如何なる大官と雖ども、紙やハンカチーフで鼻をカムものはない、皆な片鼻を壓さへて、フウーンとやるのである」。では、「フウーンとや」って飛び出したブツは如何に処理されるのか。「偶々手につくときは、壁や柱になすりつけ、果ては着物になすつて仕舞ふ」。「作法といふものは八釜しくないので、人樣の前で、放屁することなどは失禮とも、何とも、思うては居らぬ、先生の面前でも、平氣でやつている。欠伸や脊延び、居眠等は常のことで、咎むるには足らぬ」。
中野が記した授業中での手鼻、放屁、欠伸、脊延び、居眠などだが、それから60有余年が過ぎた香港中文大学大学院でも日常化していたことを思い起こせば、このような振る舞いは彼らのDNAに組み込まれていると考えたくもなる。そうそう、「壁や柱になすりつけ、果ては着物になすつて仕舞ふ」と中野が記したブツだが、当時の香港ではテラテラと光り輝く電柱やら立木を見受けたものだ。先生1人に学生2人――1人が小生で、1人が美形の才女――のゼミで、彼女が「片鼻を壓さへて、フウーンとや」ったのにはビックリ。しかも先生も彼女も何事もなかったように講義を続けていたっけ。
四川では学校当局も学生も授業時間の長いことを歓迎する傾向が強い。「之は知識に渇しているからでもあらう」。そこで「根氣のよいには日本學生などの迚も及びつかぬ所である」。だから「毎日七時間づゝ、授業されても、平氣でゐる、その代り尻から抜けて仕舞うて多く覺えて居らぬ」。だから結局は「損である」。彼らの心は全く以てウワノ空、である。
中野によれば、加えて学生は「呑氣、優長で、迫らず、焦らず、日本學生の活?燃ゆるが如きに、比すれば、お爺さんの樣である」。彼らは「總じて、氣力に乏しく、一見した所にて、其粘液質たるを知ることが出來る。これが大國を負うて立つ、将來の中華國民と思へば、聊か情けなき心地せざるを得ぬのである」。
かくして中野は教室における自らの経験に基づき、設備は不完全、学習態度のデタラメから、「一日開花に、後れてすら、文明國民の、堪ゆる所でないのに、支那は、少なくとも百年の後に、居るであらう、昔の夢ばかり、見て居る國民は、大抵こんなものであらう」と切り捨てた。「昔の夢ばかり、見て居る國民は、大抵こんなものであらう」とは、けだし名言だといっておこう。
『支那大陸横斷遊蜀雜俎』を読み進んできて不思議に思えるのは、1911年10月10日に起った武昌での武装蜂起をキッカケとする辛亥革命によって満州族皇帝が支配する清朝からアジア初の立憲共和政体の中華民国に変わったものの、革命によって激動したはずの社会の姿が明確には記されていないことだ。はたして中野が社会の激変に鈍感だったのか。関心がなかったのか。あるいは辛亥革命が内陸の四川までを揺り動かすには、まだ暫くの時間が必要だったのか。我が大正に彼の中華民国・・・時代は確実に複雑さを増す。《QED》