6月23日発行の本誌第188号に、金沢市議会議員の山野之義氏による「八田與一
の旅(その2)」を掲載、その中で、台湾の上下水道整備に貢献した浜野弥四郎
の胸像を許文龍氏が制作していたことをお伝えしました。
その後、7月10日付の「東京新聞」に、佐々木支局長がこの胸像のことを伝え、
博物館建設の動きがあることも伝えています。
先に日韓歴史共同研究に縁して、日中や日韓より、日本と台湾で歴史共同研究
を行った方が実りあるものとなるのではないかと記しましたが、「戦後六十年を
機に日台学識者らが都市水道問題で研究交流する動きも出てきた」そうですので
、期待したいところです。 (編集部)
台湾に水道整備 浜野弥四郎氏−胸像復元、博物館の計画も
歴史の再考運動 日本統治時代にも光
【2005年7月10日付「東京新聞」国際面より】
台湾が“疫病の島”と言われた日本統治時代初期に、水道整備に尽力した故浜
野弥四郎氏の業績を顕彰し、台湾に同氏に関する資料を集めた水道博物館を建設
する計画が日台間で進められている。南部・台南県では実業家で総統府資政(顧
問)の許文龍氏が浜野氏の功績に感激して胸像を復元。戦後六十年を機に日台学
識者らが都市水道問題で研究交流する動きも出てきた。(台北・佐々木理臣)
台湾では、民主化の進展に伴い一九八〇年代後半から、大陸一辺倒の史観を改
めて台湾自身の歴史を学ぶ運動がスタート。その中で、日本統治時代に日本人が
残した功績にも目が向けられるようになった。
これまでにも、台湾南部の嘉南平野を穀倉地帯に変えた烏山頭ダムなどを建設
した技師、故八田與一氏らの事業が高い評価を得ている。許氏が八田氏の業績を
調査する中で、ダム建設に強い影響を与えたとされる浜野氏の貢献を知った。
東京帝国大学(現東京大学)で衛生工学を学んだ浜野氏は一八九六年、日清戦
争で台湾を領有した日本政府の要請で衛生設備を完備するため、大学の恩師で内
務省衛生工事顧問だった英国人ウィリアム・バルトン氏と台湾に渡った。三年後
にバルトン氏が死去した後も二十年に渡った。三年後にバルトン氏が死去した後
も二十年にわたり全島で水道整備に取り組み、衛生状態向上に尽力した。
戦前まで、台南県の山上浄水場には水道整備の業績をたたえて浜野氏の胸像が
立っていたが、戦時中、行方不明になってしまった。
同氏の貢献を知った許氏は今年、胸像を自ら制作し、復元。日本人にも浜野氏
の偉業を広く知ってもらおうと、レプリカを関係先に寄贈する計画をたてている
。関係者によると、今回の博物館建設の発案者も許氏のようだ。
最近になり、浜野氏が整備した台南初の水道関連史跡が「国定古跡」に格上げ
される見通しが立った。これを受け、蘇煥智・台南県長も「浜野氏は水道整備の
先駆者として大きな貢献をした。台湾水道発展史を知るためにも博物館に同氏の
資料も展示したい」と博物館建設に意欲的だ。
また、「飲水思源」(水を飲むときに水源のことを考える)との立場から、日
本、台湾、英国の専門家が協力してバルトン氏の資料なども集め、地球の水環境
と生態系保存の大切さを訴えるセンターにしようとの提案もある。
アジア諸国で反日運動の方が目立つ中、台湾では日本人が統治時代に果たした
プラスの役割にも目を向ける動きが加速しそうだ。
浜野弥四郎氏(1869−1932年) 千葉県生まれ。東京帝国大学(現東京
大学)卒。1896年、ウィリアム・バルトン氏ともに総督府技師として台湾へ
。3年後、台北近郊・淡水で台湾初の水道を開設。99年にバルトン氏が急死した
後は独自に基隆、台北、台中、台南市など全島で都市水道整備に取り組み191
9年、帰国。その後も神戸市などの下水道計画を策定した。
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