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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(8)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1701回】                       一八・三・十

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(8)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

満州国の誕生を予言したかのような内藤が次に論じたのが、我が明治45年に当たる1912年1月1日に、孫文が臨時大総統となって建国された立憲共和政体の中華民国の承認問題だった。この問題を扱った「中華民国の承認について」は、明治45年3月18日から20日に亘って「大阪朝日新聞」に掲載されている。

先ず内藤は「自分は固より革命の成功を早く断言した一人であるけれども、これは同情とか賛成とかいう意味ではなく、単に事件の自然の推移を予測する上から言ったばかり」だと自らの立場を述べた後、中華民国承認の是非は「別問題である」とする。そして、承認の前提として、「承認時期の問題」と「民国の性質の問題」という「二箇の疑問」について論じた。

ここで中華民国建国時の事情を簡単に振り返っておきたい。

孫文は南京を拠点に初代臨時大総統に就任したものの、北京に居座り清朝政府組織を居抜きで掌中に収めたともいえる袁世凱に対しては明らかに劣勢であった。いわば中華民国とは、孫文を代表とする旧革命勢力と袁世凱を統領とする皇帝抜きの旧清朝勢力との妥協の産物でもあったわけだ。軍事力という面でいうなら、“革命の大義”を掲げながらも孫文に較べ、清朝皇帝の寝首を?いて旧清朝勢力を束ね革命の潮流に便乗した袁世凱は圧倒的に優位に立っていたわけだ。

建国直後から、孫文(南京)と袁世凱(北京)との間で中華民国の政権を廻っての暗闘が続くが、やはり軍事的劣勢は致し方なく、孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲る。1912年3月10日、清朝最後の皇帝である宣統帝の退位と共に、袁世凱が2代目の臨時大総統に就任する。それから8日後、「中華民国の承認について」は発表されたことになる。

先ず内藤は「中華民国承認という問題は、新たに出来た政府が果たして支那人を統治する能力があるか否かを判断する上から来るので」あって、南京と北京との対立という状況からして「事実上南北の統一が出来る見込みが立たぬようでは、袁の新政府を承認すべき理由は、極めて薄弱である」とする。つまり袁世凱が臨時大総統として中華民国を率いることになったわけだが、南京を拠点とする中国南部出身の旧革命勢力が事実上反対しているかぎり、国家承認はすべきではない、ということだ。袁世凱の政府を指し、「今日の仮政府は依然として永続の性質を持ったものではない」と断じた。つまり「極めて公平に自由に観察したところで、袁の政府を承認するということは、やはり時期尚早だ」という結論になる。

袁世凱にしても南京側にしても列強諸国からの借款によって軍事力増強を図ろうとするが、であればこそ「借款は支那の統一を妨げるに過ぎぬ」ので、やはり列強は借款に応ずるべきではない。むしろ両勢力とも財政難に苦しむことで、統一が早まる可能性すらある。だから列強にとって借款は「将来の損になる」というのが内藤の見解だ。

以上が承認時期の問題だが、次いで「中華民国というものの性質の問題」を論じる。

じつは中華民国という国名は革命派の重鎮で伝統的学者の章炳麟が早くから唱えていたもので、彼は『中華民国解』を著し、「どこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを説いておるのである」。つまり章炳麟によれば中華民国は飽くまでも漢族による漢族の国家なのだ。

ここで、もう一つの、領土という問題発生する。それというのも章炳麟は、中華民国の国土を「漢の時の郡県であった所を境界として」設定しているからだ。となると漢の版図に組み込まれていた朝鮮も安南(ヴェトナム)も中華民国の一部となってしまう。《QED》

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