――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(6)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
内藤は先ず革命軍の側に立って革命の成否は、�革命軍が革命軍鎮圧に向うであろう清朝軍(内藤は「官軍」とする)の中に同志を見い出せるか否か。�革命軍が武装蜂起した武昌が長江に面しているゆえに最重要課題である長江の交通権を掌握するための海軍を持てるか否か。�外国から武器を購入するための軍資金の有無――に懸かっている、とする。
一方、清朝政府側(内藤は「北京政府」とする)を「現在の北京政府では大分敵視しておった人間である」袁世凱を革命軍鎮圧に向わせた点からして、「随分あわてておる様子」であり「無定見」だと捉える。
かくして目下の情勢から判断して武昌に発した革命が「支那の大動乱になるかどうかということは、革命軍が何か月その運動を支え得るかというようなことが問題になる」。だが目下のところは「事件の最初であって、ほとんど形勢も全く分からない」。時間の経過と共に状況が分って来るだろうから、そうなった時には「もう少し正確な判断を下すことが出来るであろうと思う」とした。
当時もまた希望的観測やら揣摩憶測の類が飛び交っていたはずであり、それゆえに中国全体がどの方向に進むのか判断することは容易ではなかったはず。
次の「支那時局の発展」は、明治44(1911)年11月11日から14日の間に「大阪朝日新聞」に掲載されている。武昌での武装蜂起から1ヶ月が過ぎているだけに、現地の状況もかなり詳細に伝わって来ていたことだろう。
「当初予想したことの大部分は着々事実の上に現れてしかも予想よりも迅速に、しかも発現の仕方は結局皆革命軍の方に有利に発展して来ておる」と、革命軍有利の読みを下しているが、「革命軍が軍事上あまり成功をしないにも拘らず、つまり叛旗を翻したということだけが、既に非常なる影響を全国に及ぼしたこと」を「最も驚くべきこと」と捉える。それというのも、「支那のような感じの鈍い国(時としては馬鹿に感じの早すぎる旧来の例もあるけれども)としては、何人も想い及ばざるところである」からだ。ということは、どうやら内藤の“常識”では「支那のような感じの鈍い国」において、「革命軍が軍事上あまり成功をしないにも拘らず」、各地に駐屯している清朝政府軍が清朝に対し次々に「叛旗を翻し」たことが判らなかったということだろう。
「支那のような感じの鈍い国」とは言い得て妙ではあるが、どうやら内藤は「叛旗を翻し」た背景に郷紳と呼ばれる地主層の「馬鹿に感じの早すぎる」動きがあったことに気づいていないようだ。1911年10月10日の辛亥革命から1949年10月1日の中華人民共和国建国までの40年程の動きを振り返ると、「馬鹿に感じの早すぎる」動きが「支那のような感じの鈍い国」を揺り動かしたことに思いたるはず。その点については、必要に応じて考察することとして、内藤の「支那時局の発展」の先を急ぎたい。
情勢は混沌としているが、清朝側の最高責任者である袁世凱が掲げる「講和説が革命軍の方に入れられて、そうして一時休戦状態になってしまうか、それともこのままで戦争が継続するか」の2つに1つと、内藤は「到着すべき点は大抵きまっておる」とする。
じつは「叛旗を翻した」、つまり清朝側から革命側に寝返った「各地の新軍は大部分は純正の革命主義といってよいかも知れぬが、その間には必ずしもそうではないものもある」わけで、清朝側にせよ革命側にせよ統一して動いているわけではない。だから和戦いずれも模様眺めということにあろう。だが、革命が起った以上は「穏健なる議論が決して勝ちを制せずに、必ず極端なる主張が成功するということであ」り、「微温的なる考えは必ず失敗するに決まっておって」、「温和な改革派というものは勢力を得にくい」ものだ。《QED》