――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(23)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
貴族政治から独裁政治へ。やがて「独裁君主の力が強くなって、君主の感情次第でいかなる事でもこれを処決することが出来るようになって」しまった過程を毛沢東のそれに当てはめると、あるいは判りやすいかもしれない。
政権を打ち立てるまでの毛沢東は、強い影響力を持っていたとはいえ、多くの共産党指導者の1人だった。建国以降は毛沢東の執事役に徹していた周恩来にしてから、共産党内序列では毛沢東の上位に在った時期もある。軍事指導者としての声望は朱徳が優っていた。都市における革命活動の経験では劉少奇が、経済政策に関しては陳雲が毛沢東を遥かに凌駕していた。戦場での実践経験では彭徳懐に敵わなかった。
だが、昨日までの同僚・同志たる彼らは、天安門の楼上で建国宣言した瞬間、毛沢東の「下に立つところの臣僚の地位というものも変って来た」のだ。かくして共産党独裁政権下の中華人民共和国では、「独裁君主の力が強くなって、君主の感情次第でいかなる事でもこれを処決することが出来るようになって」しまったというわけだから、毛沢東独裁は内藤湖南の歴史観に合致してはいまいか。ならば、これも「支那人に代わって支那のために考えた・・・」(?)ということになるのか。
閑話休題。
「独裁君主の力が強くなって、君主の感情次第でいかなる事でもこれを処決することが出来るようになって来た」ことから、政争も変質する。唐以前は「貴族の間の権力の争奪」であった政争が、「唐の晩年からして朋党というものが出来」たことから、「各々政治上において好むところの人材を集めて、そうして権力を握るというような形に変わって来た」。
独裁権力は「清朝においては帝位の継承のことにまで及んでおる」。清朝では皇太子を立てず、「天子が自分の相続者をきめることにも努めて秘密主義の独裁権を用いて、そうして皇子中のある者に固定した位置を与えないようにし」た。皇帝の息子は全員が一律に扱われ、皇帝教育に励んだ。かくして「清朝の天子で歴代甚だしい暗君の出なかったのは、そういう習慣の結果」だということになる。
内藤は清朝の皇帝に独裁政治の理想形を抱いているようだが、弊害もまた認めている。じつは「臣僚というものには何人にも完全な権力が無い代りに、完全な責任も無いのである。これは支那が海外に交通をせず、一国だけで幸いに明君賢相があって、失敗もなくしておる時には、君主の地位を保つ方法として、極めて安全なもの」ではあるが、「一旦内乱外寇が起ると、既にそれを支える力が無くなって来る」。
権力がないから無責任である。そこで国家危急に際しても、「臣僚」は「成るべく自己一身に落ち度のないようにばかり計らっておって、国のために自分を犠牲にして、その発生したる事件を処理するという考えがない」。「日本人などはこの無責任の態度を老巧とか何とか感心したりするけれども」、権力が天子に一極集中している状況で「臣僚」は動きようがないというわけだ。権力と責任は表裏一体ということだろう。これを今風に言い換えるなら一強体制下では権力の集中度に応じて責任も一極集中するというカラクリになる。
じつは「支那の国が弱い」というが、「何もその兵卒の素質が悪いというのではなくして、ただ責任の無いところの長官に支配されおるため」である。「つまりこの独裁専制という政治上の組織が、今日の支那の弊害を持ち来した」。独裁政治は平時はともあれ、有事には「殆ど救済の出来ないような弊害ある政治だった」。清朝という巨大中華帝国の運営を成功させた独裁政治は、成功したがゆえに失敗した。いわば成功は失敗の父・・・である。《QED》