――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(13)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
毎度のことながら道草を食ってしまったが、ここらで内藤に戻ることとする。
内藤が中華民国という国名を考え出した章炳麟の領土に対する主張に疑義を示し、中華民国の承認問題を論じた「中華民国承認について」を「大阪朝日新聞」に発表したのが明治45年3月半ば。その直後、明治天皇崩御から大正天皇御即位へと時代は大きく転換する。明治大帝の御世が終わり、いよいよ大正デモクラシーの時代が始まろうとしていた。
慌ただしく時が過ぎたであろう大正元(1912)年の8月1日、内藤は雑誌『太陽』に「支那の時局について」を発表した。
「近頃、人に逢うごとに、支那は一体どう成るのだろうという質問を受けることがしばしばである」と、内藤は切り出す。
古い中華帝国の清国を革命し新しい共和政体の中華民国が建国されたとはいえ、まだ海の物とも山の物とも判然とはしない。一衣帯水・同文同種で形容される関係の、しかも膨大な人口と広大な国土を持った隣国である。その国の動向に「一体どう成るのだろう」と関心を払うのは当たり前だが、じつは昔も今も日本人にとって中国は謎だらけ。敢えて表現するなら終始一貫して魑魅魍魎の棲む世界といったところだろうか。
そもそも「一体どう成るのだろう」との質問については、「支那現勢の漠然たるがごとくまた漠然たる質問であり」、それに一言で満足させられるように答えることは不可能だ。「遠き将来まで貫通して支那がどうなるという問題に解決を与うることは、今日において決して容易なことではない」。だが現状から判断して、「それがどういう風に傾いて行くだろうかということは必ずしも測定し得られないことではない」と。
この辺りの指摘は、現在のみならず将来における中国論議にも――ということは過去・現在・未来を一貫して通ずるといえそうだ。
いわば国内最強の軍事力を手にして大総統に就任したものの、「袁があまりに八方美人主義を取りて何もかも穏便に事を纏めようとするのが、現在の支那の形勢を不安の地に陥るる最大原因である」。日本はじめ関係諸国は「袁の手腕に信頼しておる傾きがあ」り、「支那の統一」は彼によって達成可能と思い込んでいる。だが、「この推測は恐らく的をはずれるのである」。その根拠を内藤は次のように示した。
北京、南京、武昌、広東、奉天と「支那には五つの中心があ」り、「この五つの中心が屹立しておる次第」だ。「袁は大総統という空名を擁しておるけれども」、その権力の及ぶ範囲は北京を中心とする極めて限られたものでしかない。「各省とも皆財政に苦しむと?言うるけれども、その実、北京以外の四中心の各地においてはさほど甚だしい窮乏を感じていないのである」。つまり袁世凱がトップに坐る北京の中央政府を当てにしなくても地方は地方で独自にやっていけるわけだから、大総統なんぞクソ喰らえ、となる。いわば名前は中華民国と共和政体を取り繕いながらも、近代的統一国家には程遠いのである。
じつは「袁には妙に人を引きつける魔力があると云われておる」り、「北京に這入って来たものは、誰も彼に籠絡されてしまう」。そこで「統一は出来ない」ものの大混乱になっているわけでもない。ここで袁が度胸を決めて諸外国からの大借款を受け入れ中央政府の財政基盤を強化し、「大借款を利用して外国人をある程度まで使用して」、複雑な税制度を抜本的に整理し中央政府に一本化することが「支那財政の将来のためには非常な利益を齎すかもしれない」。つまり「北京以外の四中心」の持っていた徴税権力を取り上げることで、その権力基盤をなし崩し的に弱体化させることが統一へのカギということになる。だが「袁の老猾なことは十分わかるが、その度胸の無いこともまた、明か」というのだ。《QED》