【遥かなり台湾】「打狗英国領事館」

【遥かなり台湾】「打狗英国領事館」

「遥かなり台湾」より転載

 

日本と台湾の架け橋になる会 世話人 喜早天海

今月初めの4日間の連休を利用して高雄に行ってきました。高雄はその昔この辺一帯に住んでいた
原住民が「Takao」と呼んでいたことから、漢人が「打狗」の文字を当てました。日本統治時代に
なって発音が似ていることから1920年に高雄と改められたのです。今は同じ漢字でkaohsiung(中国
語の発音)と呼んでいます。

MRTオレンジ線西子湾駅で下車し、西子湾堤防近くにある階段を上っていくと打狗英国領事館に
入る所に十八王公廟という廟がありました。この位置からも眺めがよくちょっと階段を登りきった
ところにあるので一休みしました。領事館に入る受付があり、そこで入場料を払って中に入ると
そこは小高い丘の頂上になっていて、左手に赤レンガ造りの洋館がありました。この丘の上からの
眺めは最高です。眼下に高雄港が広がり、船舶が出入りしているのを見たりして、目を左手に移すと
高雄のランドマークとなっている85階建ての双子星ビルが目に入ります。洋館の上部はアーチ形で
周囲は回廊式バルコニーでカフェテラスになっていました。ちょうど着いた時は11時でしたが、
もし夕方ならば、ここから西子湾を照らす夕焼けを眺めたり、汽笛の音に耳を傾けたりしていたら
時間のたつのを忘れてしまうかもしれませんね。休日のためにカフェテラスは満席で、あまりゆっく
りもできず、半時間ほどして階段を下りたのですが、途中どうして台湾に英国領事館が?との疑問が
わいてきたので、もらったパンフレットを電車の中でよく読んでみました。

するとそれは清国との関係だったのです。日本統治前は清朝の領土だった台湾、
清朝末期は諸外国との戦争に敗れ、その代償として台湾があてがわれたことになるのでしょう。
以下英国領事館文化エリアのパンフレットにもとに沿革などを説明しましょう。

(その歴史)
1858年に清朝と諸外国(ロシア、アメリカ、イギリス、フランス)との間に結ばれた天津条約により、
台湾(安平)、淡水の港が開港され、通商が始まりました。1861年7月、最初に英国駐台湾副領事スワ
インホーは台湾府(台南)に第一事務所を設立、後の12月淡水に移ります。貿易量の増加により、
1863年に淡水、台湾(安平)に続き、鶏籠(基隆)、打狗の二つの港が開港されると、1864年5月
5日台湾税関が打狗に設立されました。その年の11月英国は副領事館を南の打狗に移転し、1865年
2月に領事館として昇格、スワインホーも領事に任命され、打狗領事館は名実ともに最初の英国駐
台湾領事館となったのです。

当初、英国駐台湾領事館は湾内に停泊していた三つ葉号の船上に置かれましたが、
1876年に新館工事が始まり、山の上に官邸、山の下には税関のすぐ隣に事務所が建てられ、官邸と
事務所は連絡歩道で結ばれ1879年に完成しました。

1895年日清戦争の結果下関条約で台湾が日本に割譲されることにより、英国駐台湾領事館員は東京
の大使館の管轄に移されました。その後1910年打狗と安平領事館は同時に閉鎖、領事事業は淡水に
移管されました。1925年12月領事館及び官邸の権利は日本に委譲され、領事館は正式にその役割を
終えたのです。

1931年領事館官邸は台湾総督府高雄海洋観測所とされ、1946年以降は中央気象局高雄測候所となり
ました。山の下の事務所は1932年高雄州水産試験場として缶詰製造実験が行われるようになり、
戦後は台湾省水産試験所高雄分所となって新しい役割を任させられることになったのです。

1985年高雄市政府は領事館を始めとする建物の修復をはじめました。2003年より、
文化資産再利用を掲げ、官邸を人気スポットとした上で、山の下の事務所を連絡歩道も併せて市
指定の古跡としました。領事館の設計者はイギリス人で煉瓦は中国大陸のアモイから運ばれ、職
人も中国から呼びよせて修復工事を完成させたそうです。それで今では打狗英国領事館文化エリ
アとして蘇ったわけです。

「温故知新」という言葉がありますが、台湾では昔からの文化遺産を大事にして保護したり修復
工事を施していることは素晴らしいことです。去年の4月に行った台南の知事官邸もアーチ形で
きっとここの英国領事館の建物をモデルにして造ったような気がしてなりませんでした。

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