日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」より転載
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本会初代会長をつとめた作家で文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が8月3日午後
10時33分、老衰のため都内の病院で逝去しました。満94歳でした。これまでのご指導に心から感謝
申し上げるとともに謹んで哀悼の意を表します。
報道によりますと、後日、偲ぶ会を行う予定だそうですが、日取りなどは未定です。産経新聞が
1面で報じていましたので、その記事を下記にご紹介します。
阿川先生に日本李登輝友の会会長への就任を依頼する手紙をお送りしたのは、平成14年(2002
年)12月15日の設立を1ヵ月半後に控えたころでした。現在の小田村四郎会長や台湾の蔡焜燦先生
などとも相談の上でしたが、理事ならお引き受けするが会長は自分の任ではないと断られました。
さてさて設立は迫ってきているし、考えあぐねていてもしょうがありません。蔡焜燦先生に断ら
れたことをお知らせすると「そう、じゃ僕に任せてください」とのこと。すると、折り返すように
蔡先生から「大丈夫だよ、御礼を申し上げてください」とのお電話をいただきました。忘れもしな
い11月18日のことでした。
恐る恐る阿川先生に電話を入れますと「蔡さんから言われたらね、わかりましたというしかあり
ませんから」とのことで会長をお引き受けいただいた次第です。
阿川先生に会長をお引き受けいただいたことで、岡崎久彦氏、中西輝政氏、石井公一郎氏、田久
保忠衛氏なども副会長就任を快諾いただき、晴れて12月15日、ホテルオークラ東京で開いた設立総
会を迎えることができました。
それから1年余、翌年6月に開いた第1回総会や11月末の「第1回日台共栄の夕べ」、平成16年5月
の第2回総会などにも会長として臨んでいただきました。
ただ、阿川先生はこの総会後、「そろそろいいでしょう」と辞意を洩らされましたので、翌年4
月に開いた第3回総会で正式に名誉会長に就任され、大所高所からいろいろご指導いただいてまい
りました。
本会設立とほぼ時期を同じくして李登輝元総統が名著の誉れ高い『「武士道」解題』(小学館、
2003年4月)を出版されています。阿川先生はこのご著書を巡って、本会理事でもあった拓殖大学
日本文化研究所所長(当時)の井尻千男(いじり・かずお)氏と『季刊 日本文化』(第13号、拓
殖大学日本文化研究所、平成15年7月10日発行)で対談されたことがありました。
対談では、台湾とのご縁や、本会会長に就任したときの経緯などにも触れ、とても楽しそうに話
しているのが印象深い対談です。井尻氏も2ヵ月前の本年6月3日に鬼籍に入られました。すでに故
人となったお二人ですが、台湾に深い関心を寄せていることがよく分かるとても優れた対談ですの
で、お二人を偲ぶ縁(よすが)となればと思い別途掲載します。
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阿川弘之氏 死去 「山本五十六」、正論メンバー
【産経新聞:2015年8月6日】
小説「雲の墓標」や評伝「山本五十六」など数々の戦争文学で知られる作家で、文化勲章受章者
の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が3日、老衰のため死去した。94歳。葬儀・告別式は近親者で
行う。後日、しのぶ会を開く。
大正9年、広島市生まれ。昭和17年、東大国文科を卒業後、海軍予備学生に。海軍中尉として中
国に渡った。21年に復員し、尊敬する作家の志賀直哉を紹介され、文筆の道に。27年、戦時下の
日々を自伝風に書いた長編「春の城」で読売文学賞を受賞。同時期にデビューした吉行淳之介さん
らとともに「第三の新人」と称された。以後、「雲の墓標」「暗い波濤(はとう)」「軍艦長門の
生涯」といったリアリティーあふれる戦争小説を発表し続け、作家としての地位を固めた。
「米内光政」など海軍軍人を題材にした重厚な評伝を著す一方、紀行文や私小説的な短編小説も
多数発表。35年に産経児童出版文化賞を受けた「なかよし特急」など、児童書も手がけた。他の主
な作品に「井上成美」「志賀直哉」がある。平成11年、文化勲章受章。日本芸術院会員。本紙「正
論」執筆メンバーとしても活躍した。法学者の阿川尚之さんは長男、エッセイストの阿川佐和子さ
んは長女。
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2>> 台湾と私 阿川 弘之(作家)
本会の機関誌「日台共栄」では毎号、巻頭エッセイとして「台湾と私」を掲載、主に理事の方々
に執筆いただいている。実は創刊号で、当時の会長だった阿川弘之氏に「台湾と私」と題して寄稿
いただいたのが嚆矢で、以後、この題をリレー・エッセイのタイトルとして書き継いでいます。
阿川先生を偲び、感謝の念を捧げながら、創刊号掲載の「台湾と私」をご紹介します。阿川先生
は歴史的仮名遣いで書かれる方でした。掲載時も仮名遣いは原文のままです。ただし、本誌掲載に
あたりましては、漢数字を算用数字に直したことをお断りします。
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台湾と私 阿川 弘之(会長・作家)
【機関誌「日台共栄」創刊号:平成16年(2004年)6月1日発行】
昭和17年の暮、私は台湾高雄州東港の、海軍航空隊の中で、海軍士官(学徒出身の予備士官)に
なる為の基礎教育を受けてゐた。
ある日、東港の町の小学生たちが先生に引率されて、「海軍さん慰問」にやつて来た。年末の学
芸会みたいなもので、色んな唱歌や踊りを披露してくれるのだが、特によかつたのは「一茶の小父
さん」――、陳氏某、林氏某と胸に名札をつけた可愛い女生徒の一と組が、江戸時代の童(わら
べ)になつて、俳人一茶に、小父さんのくには何処かと訊ねる。
「はいはい私のおくにはのう
信州信濃の山奥の
そのまた奥の一軒家」
そこで雀とお話をしていたのぢやと、一茶が答へる。冬も暑い南台湾で、きびしい訓練に明け暮
れてゐる私ども五百数十人の同期生、この歌を聞きながら雪の信州を思ひ出して、みんなしんみり
させられた。
それから30余年の歳月が過ぎ、戦後初めて台湾旅行の機会に恵まれた私は、台湾人の友人に案内
してもらつて、なつかしの東港を訊ねて行つた。あの、色の浅黒い可愛い女生徒たちも、もう中年
の小母さんになつてゐるはずである。誰か、当時のことを語り合へる小母さんに会つてみたかつ
た。
突然の要望で、それらしき人は中に見つからなかつたが、偶然、東港小学校の昔の校長先生と出
くはした。
「さうか。あんた東港航空隊にゐたか。そりやなつかしいだろ。今夜東港に泊つて、名物の蟹食べ
て行け。いつ頃東港にゐたか」
足の少し不自由な老校長先生が仰有る。当時台湾は、蒋政権下の中華民国、失礼の無いやうに
と、頭の中で勘定して、
「民国31年の10月から32年の4月まで……」
言ひかけた途端、思ひもかけぬ一と言が返つて来た。
「年号は昭和で言はないと分らないよ」
びつくりすると同時に、私は涙ぐみさうになつた。
かねて、台湾には日本統治時代、日本語教育のよき一面を、ちやんと認めて、日本をなつかしむ
人たちが大勢ゐると聞いてゐたが、ほんたうにさうなんだなと思つた。実際、東港周辺だけに限つ
ても、東港駅の駅長や、東港線の列車の車掌や、私が日本人旅行者と知つて、なつかしげに声を掛
けてくれる人が、老校長のほかに何人もゐた。
ただし、その「大勢」の中から、10年後、ちやうど年号の「昭和」が終る頃、李登輝といふ傑出
した政治家があらはれ、台湾の総統に就任するとは、想像もしてゐなかつた。台湾生れ台湾育ちの
新しい総統は、新渡戸稲造の「武士道」を高く評価し、日本人よ、武士道精神を忘れるな、もう少
し自信を持ちなさいと、自信喪失症の私たちを励ましてくれる人でもあつた。
個人的に李先生と接触が生じるずつと前の話だが、ある会合の席上、
「今、アジアで一番立派なステイツマンぢやないかね」
私が言つたら、一人にやりとするのがゐた。
「アジアで? 世界でと、言ひ直していただきたいですなあ」
それからさらに10数年の歳月が経ち、その総統が前総統になつて、現在やりたいことの一つは、
俳聖芭蕉の「奥の細道」をたどる旅、これはよく知られてゐる事実だが、私の方の、台湾をなつか
しむ気持の、元の元のところにも、実は前述の通り、俳人一茶がからんでゐるといふ奇妙な因縁が
あるのですよ。
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3>> 李登輝『「武士道」解題』を読む 阿川弘之VS井尻千男
上で記しましたように、阿川弘之氏は井尻千男氏と『季刊 日本文化』(第13号、拓殖大学日本
文化研究所、平成15年7月10日発行)で、李登輝元総統の著書『「武士道」解題』をテーマに対談
されています。
いささか長いのですが、ここに全文をご紹介します。掲載にあたり、漢数字を算用数字に直した
ことをお断りします。
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李登輝『「武士道」解題』を読む
阿川 弘之(作家・日本李登輝友の会会長)
井尻 千男(拓殖大学日本文化研究所所長)
◆海軍の基礎教育を台湾で
井尻 阿川さんは、日本李登輝友の会の会長に就任しておられます。その李登輝さんが、最近
『「武士道」解題』という素晴らしい本を出されました。今日は、この『「武士道」解題』や李
登輝さんのことについて伺いたいと思います。
最初に、阿川さんは、もともと台湾とはどういうご縁だったのですか?
阿川 台湾で海軍の基礎教育を受けたんです。
井尻 あ、そうでしたか。
阿川 昭和17年10月初めに、船で台湾へ連れていかれて、いわゆる予備学生として、高雄の少し南
にある東港の、何というのかな、入江みたいなところがありましてね。そこは海軍が世界に誇る
飛行艇の基地だったんです。
ところがその飛行艇が全部ソロモン方面に出払っちゃって、部隊が空き家になっている。それ
で、僕たちは飛行機の専門じゃないんですけれども、そこで基礎教育を受けることになった。い
までも東港会というクラス会があるんです。だから、とても懐かしい土地でして。
井尻 李登輝さんは、陸軍少尉で終戦でしたね。
阿川 そう。僕より3つくらいお若いんじゃないかな。
◆「年号は昭和で言わないと分からないよ」
井尻 戦後は?
阿川 ずっと行く機会がなかったんですが、いまから30年近く前、戦後20数年経ってようやく行っ
たんですよ。戦争中、海軍の少年工だった台湾人ビジネスマンに―今でも付き合いがありますけ
れども―、アテンドしてもらって、東港にも連れていってもらった。
井尻 懐かしかったでしょう。
阿川 ええ、それはもう、本当に印象深かった。台湾の人たちが日本人の僕に対して、大変な親し
みを示してくれるんです。
特に陳さんというそのビジネスマンは、馬公(澎湖島)の工作部の少年工だったのね。利発な
子供で、海軍士官たちに大変可愛がられた。天長節とかお祝いというとお赤飯が出る。だから70
になってもお赤飯が大好物でね、うちへ来ると家内が今もお赤飯を出すんです。
大変な海軍贔屓で、馬公へ入る駆逐艦から何から名前も形も全部知っていた。ところが日本は
敗けた。失意の時代が来て、山に上がって馬公の港を見ていたら、港に駆逐艦「雪風」そっくり
の船が入っている。スパイ容疑を受ける危険をおかして、蒋介石政権の軍港の中へ忍び込んでみ
た。するとやはり、錆が浮かんでいるけれども、まさにほんものの「雪風」なんです。ようする
に戦後中華民国海軍に渡されたわけですよ。それを知らないからびっくりしちゃってね。「雪風
の錆は君の涙だ」という詩を作った。そういう大変な日本贔屓のビジネスマンなんですね。
彼が台湾を案内してくれて、いろいろおかしいことがありましたよ。東港を訪ねて行った時、
昔この町の小学校長だったおじいさんとめぐりあってね、僕は失礼のないようにと、「民国三十
三年頃、私、ここにおりまして」と言ったら、「年号は昭和で言わないと分からないよ」って、
たしなめられた。涙が出そうになりましたよ。
駅員たちも覚えていて、日本語で「そうか、あんた東港航空隊にいたか。東港航空隊、懐かし
いねえ。乗りなさい、ひと駅」と言うの。
「駅、まだ昔のままあるよ」
それは大鵬という駅なんです。日本海軍が東港線という支線の途中に駅を造っていた。しか
し、そんなものは旧宗主国が造ったものだから、とっくにないだろうと思っていたら、そのまま
の名前であるっていう。「タイホウ駅が、まだあるんですか?」と訊いたところ、その駅員は
「タイホウじゃないよ。おおとりだよ」と言うんです(笑)。
井尻 逆に教えられた。
阿川 陳さんの方は、話の最中、しきりに「敗けたとき、敗けたとき」と言うから、「あなたたち
にとっては勝ったときなんじゃないの?」と聞いたら、「いいえ私は日本人、支那人 大嫌い」
(笑)。こういう人たちがいるんですね。ただ、その頃は李登輝さんの名前は知らなかった。
井尻 蒋介石がまだ存命で、戒厳令の頃ですか。
阿川 そうです。観光旅行していても、突然空襲警報が鳴り出して、なんだと思ったら、空襲を受
けた想定の演習なんですね。
◆大教養人
阿川 僕は文士ですからね、自由にものを言える立場でなければ嫌だということで、李登輝友の会
の会長も、最初はお断りしたんです。極端に言えば、李登輝前総統を批判する自由だって持って
いたい。ですから、「理事にはなるけれど、会長は勘弁してくれ」と言ってたんだけれども、蔡
焜燦さんから電話がかかってきて、「あなた、会長にならなきゃ駄目」と(笑)。
井尻 ははは、蔡焜燦さんから言われたら仕方がないですね。
阿川 鶴の一言で、しょうがない、「わかりました」と承知してしまった(笑)。だから、実務は
何にもできないし、年だけ食ってる役立たずの不適格会長なんです。
井尻 阿川さんが李登輝さんにお会いになったのはいつごろですか。
阿川 実は一昨年が初めてなんです。それ以前から、間接には存じ上げていましたがね。深田祐介
さんの書いたものを読んでいたら、昭和の陛下崩御に際して、世界の元首級で李登輝さんほど深
い哀悼の意を表した人はいないとあって、涙が出てきてね。世界の先進国がすべて帝国主義的な
傾向を持っていた20世紀の初めから半ばにかけて、昭和天皇がもし本当に台湾人を自分の権力下
に置いて得々としてる〈EMPEROR〉の感じの方だったら、そういう感情はもたれなかったでしょ
うね。やはり李登輝さんは皇室の伝統と昭和天皇のお人柄がよく分かっていたんですね。だから
ああいう涙せんばかりの哀悼の言葉になった。
10年以上前、国際政治学をやっているうちの長男が、そっちの方専門の連中とわいわい議論し
ている席に僕が出ていて、台湾の話になり、「李登輝さんというのは、いまアジアで一番優れた
ステイツマンではないだろうか」と言ったら、一人ニヤッとするのがいやがってね。「アジア
で? 世界で、と言い直してもらいたいですな」(笑)。
井尻 それは愉快だな。
阿川 そんなことで、李登輝さんにお目にかかってはいなかったけれども、蔡焜燦さんが僕の書い
たものを読んでいて、「いっぺん台湾へ来なさい」と呼んでくださった。
それで一昨年、また何十年ぶりかに台湾に行って、そのとき李登輝さんの私邸を訪ねたんで
す。政治家というより、大教養人という感じがしましたね。
井尻 私は3回お目にかかりましたが、そういう印象でした。最初は総統時代の1997年、現役の時
代にお会いして、台湾の歴史教育の話になった。蒋介石時代の台湾の歴史教育は、中国大陸の歴
史しか教えないというんですね。そのことに危機感を抱いておられて、「もっと台湾独自の歴史
を教えなければいけない」と、李登輝さんが先頭に立って歴史教科書の書き替えを始めた頃でし
た。
それで話がだんだん日本にいたころの話になって、京都の話、西田哲学の話、禅の話、次から
次へと実に話題が豊富で、深いんですね。戦前・戦中の京都学派といいますか、京都哲学といい
ますか、そのへんの教養の深さが次々と出てきましてね。驚きかつ感激したんです。
その李登輝さんが、『「武士道」解題』という本を出した。阿川さんも推薦の言葉を書いてお
られますが、これほど武士道を語るに適任者はないと思いました。もともと李登輝さんの専門は
農業経済ですね。
阿川 そう。
◆「大和魂」の語り部
井尻 新渡戸も札幌農学校を卒業して母校の教師になっている。台湾の行政官だったときも……。
阿川 そう、農業技師として台湾へ行っていますね。
井尻 それからもう一つ、クリスチャンという共通項もある。
阿川 何しろこの本、内容が充実してて面白いですね。ただ、中身を読まずにふっと見て、武士道
を大変高く評価してるというと、軍国主義の復活じゃないかと勘繰る向きもあるかもしれません
が、全く違うんです。大体、新渡戸が英文で書いた『武士道』の副題が「THE SOUL OF JAPN」、
「日本人の心」という題でしょ。言い換えれば「大和魂」です。その大和魂も、戦争中にいわれ
たみたいな、ただお国のために突っ込んで死ねばいいという、あの変な大和魂とは違うもので
ね。厚みと深みのある義と勇と側隠の心、それから礼儀正しさ、昔の日本人のよさを取り返しな
さい、失わないようにしなさいよということです。
井尻 最良の語り部ですね。
阿川 こんなにあちこち折り込んだり線を引いたりした本は久しぶり……(笑)。
この本の副題は「ノーブレス・オブリージュとは」と付けられていますが、これも特権階級の
精神性という意味ではなくて、恵まれた環境と恵まれた家庭に生まれ育った者は、公儀に尽くす
義務があるということですね。それを実際李登輝さんは実践している。李登輝著『「武士道」解
題―ノーブレス・オブリージユとは─』は、新渡戸稲造の『武士道―THE SOUL OF JAPN―」が基
礎にはなっているけれども、ある意味では李登輝さんの読書遍歴と言えますね。
井尻 李登輝さんご自身の知的遍歴がうかがえる。
阿川 哲学的な分野の読書遍歴が実に興味深いんです。それも旧制高等学校時代にかなり集約され
ている。旧制高校というものも、一種のノーブレス・オブリージュを持たなければならない立場
の人たちの教育機関だった。戦後のアメリカによる教育改革で旧制高校がなくなってしまったの
は、惜しいですよ。
井尻 そうですね。
◆武士道を体現されていた昭和天皇
阿川 旧制高等学校を卒業しないと、原則として帝国大学へは進めなかった。僕なんかは文学部だ
から、殆ど無試験みたいな東大入学ですが、それでも高等学校の卒業資格をもっていないと、東
大や京大へは原則としていけなかったんです。自分がエリートぶるわけではないけれども、その
分だけやはりノーブレス・オブリージュみたいなものが要求されると思う。
台湾の人たちもそうですね。台北高等学校があって、そこへ進学した李登輝さんが何に悩み、
何を読んだかというのは、僕は同世代だから、たいへん親近感を持ちますね。それからクリス
チャンになられるわけです。もっと前からその傾向はあったと思いますけれども。
井尻 ゲーテや倉田百三、トマス・カーライルなどを通じて、人間いかに生くべきかということ
を、思い詰めている。
阿川 うん、そう。のちに台北市長になったとき、何百万の人を治める立場だから、ついついはや
る気持になるのを、「そうはやるな」と自分に言い聞かせたというのも、それこそ武士道という
か大和魂のいい面を活かそうとされたんでしょ。
井尻 それから、先帝陛下の御製の……。
阿川 ええ、
ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ
松ぞををしき人もかくあれ
という有名なお歌に、深い感銘を受けておられますね。「勇と義が止揚されてさらなる高い次元
まで到達している」「昭和天皇は武士道を最もよく体現されていた存在」と絶賛しています。
井尻 「そうでなければ、あのマッカーサーを立ちどころに心服させることなど到底不可能であっ
たでしょう」とも指摘しています。もともと阿川さんが、『文藝春秋』の巻頭随筆でこの御製を
紹介されて、かつ李登輝さんの話を繋げて書いておられましたが、それが、この『「武士道」解
題』にまた出てきたわけです。
阿川 心服させる下心があったら誰も心服しやしない。昭和天皇は、無私の、全く天衣無縫の方で
したからね、マッカーサーも心を打たれたんでしょ。
◆日本の総理大臣になってほしい
阿川 陳さんというビジネスマンのことを言いましたが、彼は、自分の息子に「峯松」と名前
(号)を付けた。昭和天皇のあの御製からとったんです。
李登輝さんは、「自分は台湾の人間であり、台湾の政治家として生きてきたのだから、台湾の
ために終生尽くす。しかし昭和20年の夏までは日本人だった。日本も励ましたいんだ」というこ
とを言っておられますが、ありがたい話ですよね。そんなことを言う指導者が、世界中ほかに誰
かいますか。
井尻 日本の和歌に関する感受性も非常に鋭敏に表現されているし、それから禅への関心も深い。
西田哲学の本質に迫っている。ところが、戦後の京都学派には急速に左翼の方に変節していった
人が何人もいますね。われわれは日本に住んでいると、京都学派の知識人が戦後崩壊して左翼の
方に走っていった姿を見てしまったわけです。
これに対して李登輝さんは終戦まもなくして台湾に戻って、京都学派の崩壊を感じてはいたで
しょうけれども、目の当たりにしなかった。それはある意味で幸福なことではなかったのか、そ
んな気もしました。戦後の知識人が自ら崩れてしまった屈辱的な一時期を経験していないだけ
に、このように素直に日本的な価値体系を評価できたんじゃないでしょうか。
阿川 そうかもしれないけれど、いわゆる外省人たちが入ってきたときの苦労は大変なものだった
でしょう。命がけでした。そうして、しかも国民党の中から頭角を現し、自由化を実現し、台湾
を繁栄させたというのは凄いことです。
「日本の総理大臣になってほしい」と言う人がいるそうだけれど、まったく、そう言いたくも
なりますよね。
井尻 もし総理になってくださったら、日本も変わるでしょうね。
阿川 一変しますよ。
井尻 もう一つは、李登輝さんがクリスチャンになったということですね。新渡戸もクリスチャン
だったわけですが、クリスチャンになったことと、ヨーロッパの教養というものを上手に組み合
わせて、新渡戸の『武士道』を解題している。もちろん中国の儒教や道教、その他の中国古典に
関する素養はたっぷりあるわけですから、日本と中国と西洋、この3つの教養の蓄積が次々に繰
り出されてくる。その知的な広さと平明な語り口が、実に読んでいてすがすがしい。新渡戸を語
りながら李登輝さんの人格の奥行きみたいなものが伝わってくる。
阿川 新渡戸稲造の『武士道』を語りながら、ご自分の政治哲学とか政治上の信念、人生観という
ものを、はっきり出しておられます。
井尻 本居宣長の、
敷島の大和心を人とはば
朝日に匂ふ山桜花
あるいは吉田松陰の、
かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂
などを引きながら、武士道と大和魂の神髄に迫っています。和歌に対する感受性というか素養
は、大変なものがありますね。
阿川 平成8年に菊池寛賞を受賞した『台湾萬葉集』(孤蓬萬里編著)というのがありますが、和
歌一般というより万葉集を、戦前日本人の先生に教わって、非常に感銘を受けた人たちが大勢い
て、その裾野が広がって、『台湾萬葉集』をつくった。台湾には和歌の伝統が受け継がれている
わけですね。それから、最近『台湾俳句歳時記』(黄霊芝著)というのも出た。
井尻 それは面白いなあ。確かに風土が違うわけだから、歳時記も台湾風に修正しなくてはならな
い。
阿川 季語も台湾の食べ物だったり台湾の花だったりする。俳句の中に台湾語が入ってくるわけで
す。そういう文化のつながりというか、日本のいいものがそういうふうにして残っているという
ことに、感銘を受けた。
井尻 台湾には「日本語を愛する会」というのがあって、70代ぐらいの日本語世代から、それ以下
の若い世代の会員まで含めて、日本語の文学鑑賞をしているんです。
阿川 ほう。
井尻 きっと阿川さんの作品も取り上げられていると思いますが、文学作品を取り上げて、それを
まずアナウンサーが美事に朗読する。それから、その言葉の解釈と、台湾の言葉に置き換えると
どういう表現になるのかという勉強会をしているグループなんです。感動しましたね。
彼らは今日の日本語が乱れている事態を本気で嘆いていました。それはやはり、李登輝さんの
存在と無縁ではない。韓国の李承晩のように、いち早く強烈な反日教育をしてしまうと、そうい
う人たちも絶えてしまっていただろうけれども、幸い台湾では日本語を愛する勉強会があり、和
歌や俳句まで自分のものにして楽しんでいる。
◆日本人よ、自信を持て
井尻 李登輝さんが政治の現役を退いたとき、キリスト者として山にでも入って、常民というか、
普通の台湾人のお世話をしたいということをおっしゃっております。もちろんキリスト者として
の文脈で話しているんですが、日本的に置き換えますと、隠棲する、あるいは隠遁するという感
受性ともダブっているのかなと思ったんです。李登輝さんが、かねて「奥の細道」を歩いてみた
いと表明されているお気持と連続しているような気がしました。
阿川 それにしても、なぜその程度のことが実現させてあげられないのか。日本の政府は何をして
いるのかと思うね、僕は。
井尻 とにかく健康であられるうちに、日本でお迎えして、「奥の細道」のいちばんいいところ
を、お好きなようにご案内する。そういうことを早く実現したいと思うんです。
阿川 この本にこういう件りがあります。
<日本の方々にも言いたいのです。
「もっと自信を持って、自らの意志で、決然と立っていてもよいのではないですか? なぜな
ら、あなたがたこそ、『日本の魂』(つまり武士道)の真の継承者なのだから」>
そう言って日本を励ましてくれているわけですね。李登輝さんをお迎えするくらいのことは、
「自らの意志で、決然と」実行すればいいんです。
◆文武両道の体現者
井尻 『武士道』とともに『奥の細道』にも思い入れがつよいようですね。日本に行ったらぜひ
「奥の細道」、芭蕉の後を追ってみたいという気持を持っておられる。まさに文武両道ですね。
日本の政治家にはちょっと期待すべくもない世界ですね。
阿川 それから、台湾独立を望むのかどうかということについても、随分はっきり語っています
ね。中華人民共和国なんて言っているけれども、言っていることとやっていることは違うじゃな
いか。自分は台湾を独立させようなんて一言も言っていない。向こうがせめて台湾並に民主主義
や自由主義を成熟させてくれるのを待っているんだ、と。
井尻 一刻も早く台湾のレベルに追いついてほしい、根気よくそれを待つのは、自分の「側隠の
情」である、と。
阿川 さっきも言ったけれど、こういった感性というか教養は、だいたい高等学校のころに基礎が
出来上がっているんですね。
井尻 鈴木大拙や西田幾多郎に惹かれたのもその頃でした。
阿川 だから日本の悪いところもみておられるだろうけれど、いいところをたっぷりとっている。
井尻 反日感情がわだかまっていると、どうしても悪いところを語りたくなるものですが、李登輝
さんの場合、そういう底意地の悪さとは無縁ですね。そこに人格を感じさせられます。
阿川 「総統という立場に置かれていた12年間、新渡戸精神というものが自分の言動や政治哲学を
強く支配していた」というんだから、これにはあらためて驚きを感じますね。日本人として、誇
らしく思うというか、感謝するというか、そういう人がいてくれたということは、救いであり、
ほんとに大きな励ましになる。
◆「大和魂」は大人の思慮分別
井尻 李登輝さんは、ものごとを考えているとき、日本語で考えているんでしょうか。李登輝さん
のことは分からないけれども、実業家の許文龍さんは、「自分は殆ど日本語で考えている」と
おっしゃっていました。
阿川 そうですか。許文龍さんもほぼ李登輝さんと同世代でしょ。言葉の問題はともかく、あの
方々がやはり大和魂の持ち主なんだろうな。
ただ、それは戦時中のヒステリックなものとは違うんでね。大和魂というのは、『今昔物語』
か『宇治拾遺』か何か、平安時代あたりの説話集の中にある話だけれど、家に泥棒が入って、勝
手にものを持ち出していくのをみていて、腹に据えかねて、隠れていたのが最後に何か罵った。
それで泥棒が引き返してきて殺されてしまう。これについて、大和魂なきためにこういう目に
遭ったんだと諭しているわけです。つまり大和魂というのは大人の思慮分別なんですね。感情に
まかせて余計なことを言ったりはしないという心構えのようなものなんです。
井尻 「『武士道』は勇気だなどと短絡して、何でもかでも遮二無二、猪突猛進すればいいという
ものではありません」、「死に値せざる事のために死するは、『犬死』である」と、李登輝さん
は断言しています。
それから、こんな件りもあります。
<私の総統時代、中共から絶えず激しい挑発を受けました。すると、台湾の国民も大きく動揺
して、「とにかく恭順の意を表しておこう」という者や、「いや、徹底的に戦って相手を屈服さ
せよう」という者など、さまざまな人々からさまざまな反応が出てきます。こういうときにこ
そ、もっと大局的な視座からもっと大きな判断を打ち出すのが、民の上に立つ者の務めだと痛感
しました。>
文攻武嚇と称して、北京は台湾近海にミサイルまで打ち込んできたわけですが、李登輝さんは
動じなかった。
阿川 「慌てんでいい」と、泰然としていた。
井尻 日本の政治家だったら、どうなりましたか。あれは想像を絶する試練だったでしょうね。
阿川 ミサイルでぐらつくほど「『新台湾』はひ弱ではありません」と、大変な自信を示していま
す。指導者たる者、こうでなくっちゃ。
井尻 こうも言っています。
<日本は、北朝鮮のミサイルのことをすごく怖がっているように思えますが、いたずらに我を失
うようなことをしてはいけません。何もやみくもに怖がることなどないはずです。>
阿川 ほんとに、日本の総理大臣になってもらいたいねぇ。(笑)無理な注文だろうけど。
井尻 あの中国の露骨な文攻武嚇。言葉で攻め、武力で脅しても屈せずに対処してきたという、こ
の実績は凄いことです。アジア周辺諸国の中で燦然と輝いている。
阿川 それを言うなら、「アジア」と言わずに「世界」と言ってほしい……ですよ。(笑)
◆北京に怯える日本政府
井尻 それにしても日本の政治家や外務省が李登輝さんの訪日を認めないのはとんでもないことで
す。
阿川 北京が何を言ってこようと、「それとこれとは別だ」と言えばいいじゃないですか。
井尻 しかもいまは全くの私人ですからね。そのビザを発給しない。怯えている。
阿川 もし今後もビザを発給しないということだと、世界的な信義の問題で、日本は独立国家とし
ての誇りも自信も持っていない国家ということになる。
井尻 それと同時に、国内でも「主権国家としてそれはいかにもだらしない、情けない」という世
論が出てくると思いますよ。
阿川 ある意味ではわれわれも試されているということです。おそらく、アジア諸国の中でも、日
本が一番臆病でしょう、中国・北京に対して。
阿川 「日本人、もう少し胸を張りなさい。しっかりしなさい」と励ましてもらっているんだから
ね。
井尻 聖徳太子が随の揚帝に「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」と
言って、日本が大陸から離れて、独自の国造りを始めた。あれから大宝律令その他が整理される
までに約100年かかっているんですね。つまり大陸との関係を平等にしてから国内体制を整える
までに約100年かかった。台湾も、蒋介石が台湾に来てから50数年経っている。フランスのノル
マンディ―地方からイギリスヘ渡った人々が独立してイギリスという国をつくるわけですが、こ
れがまた100年戦争をしています。だから結局大陸周辺の島が国になるには100年ぐらいの年月が
必要なんです。
さすがに現在は時間の流れが速いから、かつての100年は現在の50十年に匹敵するとも考えら
れる。そろそろ、結論が出る時期のように思うんです。
阿川 日本の戦後を見てみると、50年ではまだ駄目ですね。日本がちゃんとした国になるには100
年かかるのかなと僕は思っています。経済面は30年から40年でここまで回復したけれど。
◆経済は国家の中心軸たり得るか
井尻 ところが、その経済が素晴らしくなるということが、いかに難しい問題をもたらすか、気を
つけねばならないんです。
最近は台湾の大陸投資が急速に進んでいますが、李登輝さんは、「一番の問題は、台湾の製造
業がどんどん大陸に行ってしまうことだ」と嘆いていました。工場を移転して、安い人件費でも
のを造る。まさに日本がやってきたのと同じことをいま台湾がやっているんですね。やはり経済
というのは魔物です。と言うのは、ほんの一部の例外は別として、経済人には武士道がないんで
す。
阿川 利益に群がって、公に尽くさない?
井尻 結局のところ、大局観を欠いた企業の私利私欲。
阿川 これはしかしある意味ではしょうがない。経済というのはそういうものなんだろうから。
井尻 しかしそれは経済というものが国家の中心軸たり得るかどうかという問題だと思うんです。
李登輝さんは経済人の「人間の格」を問うているように私は見ました。明治の人たちの富国強
兵、殖産興業というんですか、国を興していく志。国という大きな枠組の中で、国民経済という
ことを大事にしてきたわけですけれども、ここまでボーダレス現象がすすんでしまうと、難しい
ことになってくる。
阿川 その通りですね。
井尻 本日は、ありがとうございました。