10時33分、老衰のため都内の病院で逝去しました。満94歳でした。これまでのご指導に心から感謝
申し上げるとともに謹んで哀悼の意を表します。
報道によりますと、後日、偲ぶ会を行う予定だそうですが、日取りなどは未定です。産経新聞が
1面で報じていましたので、その記事を下記にご紹介します。
阿川先生に日本李登輝友の会会長への就任を依頼する手紙をお送りしたのは、平成14年(2002
年)12月15日の設立を1ヵ月半後に控えたころでした。現在の小田村四郎会長や台湾の蔡焜燦先生
などとも相談の上でしたが、理事ならお引き受けするが会長は自分の任ではないと断られました。
さてさて設立は迫ってきているし、考えあぐねていてもしょうがありません。蔡焜燦先生に断ら
れたことをお知らせすると「そう、じゃ僕に任せてください」とのこと。すると、折り返すように
蔡先生から「大丈夫だよ、御礼を申し上げてください」とのお電話をいただきました。忘れもしな
い11月18日のことでした。
恐る恐る阿川先生に電話を入れますと「蔡さんから言われたらね、わかりましたというしかあり
ませんから」とのことで会長をお引き受けいただいた次第です。
阿川先生に会長をお引き受けいただいたことで、岡崎久彦氏、中西輝政氏、石井公一郎氏、田久
保忠衛氏なども副会長就任を快諾いただき、晴れて12月15日、ホテルオークラ東京で開いた設立総
会を迎えることができました。
それから1年余、翌年6月に開いた第1回総会や11月末の「第1回日台共栄の夕べ」、平成16年5月
の第2回総会などにも会長として臨んでいただきました。
ただ、阿川先生はこの総会後、「そろそろいいでしょう」と辞意を洩らされましたので、翌年4
月に開いた第3回総会で正式に名誉会長に就任され、大所高所からいろいろご指導いただいてまい
りました。
本会設立とほぼ時期を同じくして李登輝元総統が名著の誉れ高い『「武士道」解題』(小学館、
2003年4月)を出版されています。阿川先生はこのご著書を巡って、本会理事でもあった拓殖大学
日本文化研究所所長(当時)の井尻千男(いじり・かずお)氏と『季刊 日本文化』(第13号、拓
殖大学日本文化研究所、平成15年7月10日発行)で対談されたことがありました。
対談では、台湾とのご縁や、本会会長に就任したときの経緯などにも触れ、とても楽しそうに話
しているのが印象深い対談です。井尻氏も2ヵ月前の本年6月3日に鬼籍に入られました。すでに故
人となったお二人ですが、台湾に深い関心を寄せていることがよく分かるとても優れた対談ですの
で、お二人を偲ぶ縁(よすが)となればと思い別途掲載します。
阿川弘之氏 死去 「山本五十六」、正論メンバー
【産経新聞:2015年8月6日】
小説「雲の墓標」や評伝「山本五十六」など数々の戦争文学で知られる作家で、文化勲章受章者
の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が3日、老衰のため死去した。94歳。葬儀・告別式は近親者で
行う。後日、しのぶ会を開く。
大正9年、広島市生まれ。昭和17年、東大国文科を卒業後、海軍予備学生に。海軍中尉として中
国に渡った。21年に復員し、尊敬する作家の志賀直哉を紹介され、文筆の道に。27年、戦時下の
日々を自伝風に書いた長編「春の城」で読売文学賞を受賞。同時期にデビューした吉行淳之介さん
らとともに「第三の新人」と称された。以後、「雲の墓標」「暗い波濤(はとう)」「軍艦長門の
生涯」といったリアリティーあふれる戦争小説を発表し続け、作家としての地位を固めた。
「米内光政」など海軍軍人を題材にした重厚な評伝を著す一方、紀行文や私小説的な短編小説も
多数発表。35年に産経児童出版文化賞を受けた「なかよし特急」など、児童書も手がけた。他の主
な作品に「井上成美」「志賀直哉」がある。平成11年、文化勲章受章。日本芸術院会員。本紙「正
論」執筆メンバーとしても活躍した。法学者の阿川尚之さんは長男、エッセイストの阿川佐和子さ
んは長女。