【島崎義行作品集】台湾〜我が故郷

【島崎義行作品集】台湾〜我が故郷

メルマガ「はるかなり台湾」より転載

【編集長の一言】

私も大同国小(戦前の明治小学校)の卒業生です。
当時の制服も木造の校舎も椅子も机も明治小学校当時のままでした。

そして毎日のように担任の先生に「バカ野郎」と叱られていました。
それは一番最初に覚えた日本語でした。

「台湾の声」編集長 林 建良(りん けんりょう)

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(まえがき)

来たる2015年は、早いもので終戦70周年を迎えます。終戦(1945年8月15日)までは台湾は日本の領土でした。日本統治時代と言われる台湾で生まれ育った日本人は「湾生」と呼ばれていますが、湾生の人たちも本当に残り少なくなってきました。湾生の人たちにとっては、台湾は、いかに時代が変わろうと、国が変わろうと、それこそ自分の故郷に他ならないのです。この冊子の作者である島崎先生もそんな湾生の一人なのです。

先生とは2003年に台中市で開かれた台中師範創立80周年記念の同窓会に知人の招きで招待された時に知り合ったのがきっかけで、

「僕の子供も平成の湾生ですよ。」と話したら非常に親近感を持たれ、それ以降親交を結んできました。

3年前に、先生から頂いた原稿とか、同窓会紙などに寄稿しておられたものを一冊の冊子にまとめ『ある湾生の回顧録』のタイトルで先生に送ったところ「これはぼくが作りたかったものだよ。」と言って大変喜んでくれたのです。そして今回先生の戦後の経歴や写真などを加えて『台湾〜我が故郷』として再編集して先生に再度喜んでもらおうと考えておりました。それで、電話で伺おうと思い、仙台の自宅に電話を掛けたのが今年五月のことでした。すると、

電話口から届いた返事は「父は昨夜亡くなりました。」との悲報だったのです。
まさに青天の霹靂でした。

ご子息の由平氏からしばらく経ってその後ご丁寧な便りを頂きました。その便りには「父の葬儀が行われた日は最後の台中会(戦前の台中州で生まれ育った日本人の学校などの集合体)の集まりがありました。父の命の台中会が解散だったのです。父の口癖だった台中会がなくなれば自分も最後だと言わんばかりの日となり、父と台湾の関係の運命のようなものを感じました。忘れられない日となりました。」と書かれてありました。
そして先生の経歴がわかる文章も同封されてありました。

こうやって本書に収録されている文章を再度読み返してみるとどの作品からも先生の台湾に対する深い思いが感じられるのです。

本書は、戦前の台湾で同じ時間を共有した湾生と本島人(日本語族)を結び、かつ日本と台湾の絆を、また敗戦によって失われた故郷台湾にいつまでも望郷の念を持っていた湾生の人たちのことを後世の人たちに伝えていかねばと思っています。

今回の発刊にあたり、本書の題字は前作『日台の架け橋』がきっかけとなって知り合った書道家の渡辺秀碩先生に書いていただきました。そして先生の母校である明治小学校(現大同国小)卒業でかつ前駐日代表(大使)許世楷氏の奥様である盧千恵様からは序文を、また母校の台中師範校友会元会長でもあり、台日会の顧問でもある施耿邨先生からは推薦のお言葉を寄せて頂きました。3名の方にはここで紙面をお借りして厚く御礼申し上げます。

この本書を謹んで先生のご霊前に捧げます。

そして、先生、いつまでも空の上から故郷である台湾を見守っていてください。


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