魏徳聖氏の監督した映画が2008年8月に公開され、大ヒットした「海角七号」だ。
映画「海角七号」にはモデルがいたと言われている。宮城県に住む湾生の島崎義行氏がその人だ
という。
かつて島崎氏が台湾・台中市で教師をしていた26歳のころ、給仕をしていた10歳年下の台湾人女
性と知り合う。2人はお互いに好印象を持っていたものの、日本の敗戦により、島崎氏が日本に引
揚げたため離れ離れとなる。しかし、日本に引揚げた島崎氏はその女性への想いを断ち切れず、当
時の生徒にも助けを借りて行方を探したとも伝わる。
台中市に住む「日本と台湾の懸け橋になる会世話人」の喜早天海(きそう・たかひろ)氏は島崎
義行氏と親交があり、このほど『台湾〜我が故郷』という冊子にまとめたそうだ。本日発行のメル
マガ「はるかなり台湾」でその経緯を書かれているので紹介したい。
なお、喜早氏の編著となる『日台の架け橋』は本会でも取り扱っている。1999年に台湾を襲った
台湾大地震のとき、使用不能に陥った台中の日本人学校を迅速に再建された当時の李登輝総統のエ
ピソードや、逆サイフォンの原理を利用して渓谷を越える農業用水路「白冷[土川]」を造り、地
元の人々に“命の水”をもたらして「水利の父」と称えられる磯田謙雄(いそだ・のりお)技師の
ことなど、日本ではほとんど知られていない日台の心温まる物語を紹介している。
◆喜早天海編著『日台の架け橋』
https://mailform.mface.jp/frms/ritoukijapan/uzypfmwvv2px
台湾〜我が故郷 喜早天海(日本と台湾の懸け橋になる会世話人)
【メルマガ「はるかなり台湾」:2014年11月23日】
皆さん、ご無沙汰しております。「しばらく配信されなくなったのでどうしたのか。」と、ある
人が心配してメールをくれました。ぼくの拙い記事を楽しみに待ってくれている人もいるんだなあ
と、思い嬉しかったです。
実は最近、また本を出す予定を編集作業に没頭していたからです。やっとメドがついたところで
す。タイトルは「台湾〜我が故郷」にしようと思っています。
以前、ある湾生(台湾で生まれ育った人)が書き綴ったものを冊子にまとめたのですが、その人
が今年5月に亡くなってしまったので、その冊子に写真や資料など加え再編集したものをご霊前に
捧げたく、年内中には発刊させようとしているのです。
はじめに(原稿)
来たる2015年には、早いもので終戦70周年を迎えます。終戦(1945年8月15日)までは台湾は日
本の領土でした。
日本統治時代と言われる台湾で生まれ育った日本人は「湾生」と呼ばれていますが、湾生の人た
ちも本当に残り少なくなってきました。湾生の人たちにとっては、台湾は、いかに時代が変わろう
と、国が変わろうと、それこそ自分の故郷に他ならないのです。この冊子の作者である島崎先生も
そんな湾生の一人なのです。
先生とは、2003年に台中市で開かれた台中師範創立80周年記念の同窓会に知人の招きで招待され
た時に知り合ったのがきっかけで、それ以降、親交を結んできました。
3年前に、先生から頂いた原稿とか同窓会紙などに寄稿しておられたものを一冊の冊子にまと
め、『ある湾生の回顧録』のタイトルで先生に送ったところ、「これはぼくが作りたかったものだ
よ」と言って大変喜んでくれたのです。
そして今回、先生の戦後の経歴や写真などを加えて『台湾〜我が故郷』として再編集して先生に
再度喜んでもらおうと考えておりました。それで、電話で伺おうと思い、仙台の自宅に電話を掛け
たのが今年5月のことでした。すると、電話口から届いた返事は「父は昨夜亡くなりました。」と
の悲報だったのです。まさに青天の霹靂でした。
ご子息の由平氏から、しばらく経ってご丁寧な便りを頂きました。その便りには「父の葬儀が行
われた日は湾生の集まりである台中会の解散式でした。まさに父の口癖だった台中会がなくなれば
自分も最後だと言わんばかりの日となり、父と台湾の運命のようなものを感じました。」と書かれ
てありました。そして先生の経歴がわかる文章も同封されてありました。
台中会とは戦前の台中州(今の台中市、彰化県、南投県)にゆかりの湾生の人たちの集まりで
す。ぼくが台湾に住み始めた翌年の1988年は、台中市の100周年にあたる年で、約100名に及ぶ台中
会の会員が里帰りしたのです。
祝賀会に招待されてその時、はじめて台中会の存在を知り、湾生の人たちに出会ったのでした。
祝賀会の席上、司会者の方が開口一番言った言葉があります。最後の人名を除いて全部台湾語だっ
たのです。それは次のようなあいさつで始まったのです。
「湾生の皆さん、まだ覚えてますか。ジャパーベ、バーツアン、バーワン、オンライ、 ツァイポ
ウ、 カッキン!カッキン! 花岡一郎、二郎」
どれも聞いたことのない言葉で、チンプンカンプン。ぼくはまるで異邦人でした。でも、湾生の
人たちは「あー、まだ覚えているよ」といった感じで一つ一つの言葉にうなづいていました。
そして、最後の参加者全員による「故郷」の合唱の光景はいまだに強烈にまぶたに焼き付いてい
ます。「♪うさぎ追いしかの山♪」歌が始まると感極まってある人は涙声で、ある人は声を震わせ
て歌っていたのです。
「故郷は遠くにありて思うもの」とよく言われますが、湾生にとって懐かしの故郷台湾に帰って
きて、走馬灯のごとく次から次と過ぎ去りし少年少女時代のことが思い出されたのでしょう。
こうやって収録されている文章を再度読み返してみるとどの作品からも改めて先生の故郷台湾に
対する深い思いが伝わってくるのです。
本書は、戦前の台湾で同じ時間を共有した湾生と本島人(日本語族)を結び、日本と台湾を結
び、また20世紀と21世紀を結ぶ役割を果たすと思っています。
この冊子を謹んで先生のご霊前に捧げます。
そして、先生、いつまでも空の上から故郷である台湾を見守っていてください。