んで溺死した日本人教師、山岡栄先生を台湾・台中の人々は今でも忘れずに慰霊顕彰している。
命日翌日の5月10日、慰霊祭に参加した『日台の架け橋』の著者、喜早天海氏(日本と台湾の懸
け橋になる会世話人)がその模様を報告されている。
転載にあたり、タイトルを「殉職山岡先生の慰霊祭」を「殉職された山岡栄先生の慰霊祭」に変
更し、読みやすさを考慮して漢字を平仮名に開き、適宜改行などを施したことをお断りします。
殉職山岡先生の慰霊祭
【メルマガ「遥かなり台湾」:2014年5月18日】
去る5月10日の土曜日に、台中市新社区にある新社高中(日本の高校に当たる)に、台中ばかり
でなく、北は台北から南は高雄からそして日本からも、この日の慰霊祭に参加するために続々と集
まってきました。
慰霊祭とは、戦前、農林国民学校(新社高中の前身)の先生だった山岡栄先生の慰霊祭のこと
で、現地の台湾人が主催しているのです。
ぼくがこの山岡栄先生のことを知ったのは今から10年前で、この慰霊祭のことが載っている新聞
記事に興味を持って、日本人教師の記念碑を探しに行ったのです。
でも、新社に行っても誰も記念碑のことを知っている人がおらず、あきらめて台中に戻ろうかと
思ったとき、偶然にも小さい頃よく通学の途中に記念碑の前を通ったという人に出会い、案内して
もらうことができたのです。
路地を入り、廟の前に車を停めて、そこからあぜ道を歩くこと10分ぐらい、坂道を降りて行くと
草藪の中に記念碑があったのです。
それから5年後にまた記念碑を訪れると、今度は途中に案内掲示板があり、坂道は石の階段に
なって、周囲はきれいに整備されていたのです。そして、記念碑の碑文が長年の風雨にさらされた
ためか判読できないほどになっていたためでしょうか、近くに山岡先生のことを紹介した石碑が建
てられていました。
今回の慰霊祭が始まる前、集合場所となった新社高中で山岡先生に関する冊子本が参加者全員に
渡され、その中に長年の疑問だった碑文の内容が掲載されており、やっと解明しました。では、そ
の碑文を記しましょう。
殉職山岡先生之碑 碑文
君ハ明治三十五年愛媛県伊予郡中山町ニ生レ、昭和五年一月渡台、職ヲ東勢農林国民学校ニ奉ジテ
育英ノ任ニ就クヤ、切々卉ル熱ヲ以テ学徒ヲ導キ、滾滾溢ルル愛ヲ以テ子弟ニ接ス日、尚浅クシテ
心肝ノ融合渾然一体ノ如シ、偶々同年五月九日豪雨忽チ食水[山の下に科]渓ヲ激流ト化シ帰途ニ在
ル児童危殆ニ瀕ス 君之ヲ聞クヤ目前難ニ面セル人命ノミヲ知リテ厳ヲ噛ム急湍アルヲ見ズ卒然身
ヲ躍ラシテ救ニ赴キ遂ニ斃ル 嗚呼壮絶崇高ナルガ君ガ行跡ハ誠ニ一世ノ亀鑑タリ宣ナリ 地方有
志及父兄等茲ニ渓ニ臨ミテ碑ヲ建テ君ガ殉職ノ遺烈ヲ後昆ニ垂レムトス即テ来リテ文ヲ余ニ嘱ス此
ノ擧ヤ誠ニ興風作教ニ効スヲ喜ビ敢テ按ヲ草スト云爾
昭和五年十一月一日 台中州知事正五位勲四等 水越幸一
碑文は旧仮名使いの難しい文章で書かれているのでわかりづらいかと思いますのでもう少し詳し
く説明しましょう。
今から84年前の昭和5年(1930年)1月に、故郷の愛媛県に子供2人と妻のお腹の中にもう1人の子
供を残し、当時の東勢農林國民學校(現:新社高中)に単身赴任したのが山岡栄先生(明治35年生
まれ)でした。
その年の5月9日、授業中にまるで台風が来たかの如くの豪雨となり、学校側は生徒の放課後の帰
宅は安否が懸念されるので、臨時処置として授業を打ち切って下校させたのでした。
ところが、公学校の7人の児童が父兄に付き添われて徒歩で帰る途中、突然川が氾濫、竹で作ら
れた橋が流されたのです、そして、川の中州で進退きわまって救助を求めたのです。
近くの住民が集まりましたが、施すすべなくワイワイ騒いでいる中に急報に接した山岡先生がか
けつけ、自分の身の危険を顧みず、逆巻く濁流に飛び込み、勇敢に救助に向かいました。しかし、
急流に押し流されて溺死し、遺体は下流で発見されたのでした。
幸いなことに中州に避難していた児童・父兄は水が引いたところで全員無事救助されました。山
岡先生が台湾に来てわずか4か月、享年29歳の若さでした。
先生のあのとっさの場合における決心と行動に対して「無謀すぎる、台湾の川を知らないから
だ」等など批判する人もいたそうですが、「怖いよう!助けて!」という生徒たちの声を聞いて、
この子供たちを助けたいという一念だけだったのでしょう。
冊子本によれば、5月17日、山岡先生の葬儀が学校葬として挙行され、参列者は一千余名に達す
る盛儀だったようで、その中で次のような弔辞が読み上げられたのでした。
「新社農林国民学校教師山岡栄氏の殉職島内に伝わるや、さらきだに芝山巌精神をモットーとする
我が台湾教育界は一層の緊張を加えた。(中略)嗚叫(ああ)、氏は肉体的には短命であったが、
精神的には老いもせず、死にもせず、一死をもって百代に名を残し、一命をもって当代の畏敬に賛
す、嗚叫、氏の偉大なる犠牲的精神は長く世道を照らして人心感化する大なるものがあるだろう」
地元の人たちは山岡先生のために「殉職山岡先生の碑」を建て、毎年、命日に追悼式を行い、そ
のことは教科書にも載ったそうです。その後、村人たちはもちろん子供たちもこの碑のそばを通る
たび、足を止め両手を合わせていたといいます。
終戦後は国が変わり、記念儀式は排除され、教科書からもその記述が消えてしまいました。以
後、記念碑と山岡先生の夫人が植樹した2株のいぶきも、年月の経過とともに雑草の中に埋もれて
しまったのです。
それから終戦後も半世紀が過ぎ、だんだん当時を知る人たちが少なくなっていく中、1999年の
921大地震後、毎年5月になると、地元の団体である白冷圳促進会の主催で山岡先生を偲ぶ会が
挙行されているのです。
かつて促進会の徐炳乾理事長は「山岡先生のことは国の内外を問わず、末長く顕彰し後世に伝え
ていかなければならない」と語っていたことがあります。当時、先生が自分を犠牲にして救おうと
した子供たちの子孫は、今だに山岡先生の命日になると記念碑に献花し、先生の死を悼んでいるの
です。
今年の慰霊祭には、主催者側からの呼び掛けに台日会のほか、台中・高雄の日本人学校の先生方
も参加してくれました。ぼくも土曜日の休日と重なったので初参加。この日は『架け橋』の本が機
縁となって知り合ったばかりの人たちを一緒に誘い、また山岡先生の遺族の方とも知り合うことが
できました。
あいさつの中で、孫娘の駄場恵美子さんは「祖父の自己犠牲の精神は理解できるが、それでもや
はり家族の悲しみは深かった」と話していたのが印象的でした。
読者のみなさんの中でも、来年の慰霊祭には是非参加したいという方は、その節が近づきました
らメルマガやフェイスブックでお知らせしますので、是非ご一報ください。