【寄稿】日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし(二)

【寄稿】日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし(二)    

       柳原 憲一(医師・平埔族文化研究家)

明王朝と台湾

 最近、石泉山房文集に収録された1562年明王朝の郭汝霖の上奏文につての解釈が日中間に大きな波紋を呼んだ。「渉琉球境界地名赤嶼」一文に対して、日本の学者は「琉球の境に渉(わた)る。界地は赤嶼と名づけられる。」のように解読すべきと主張し、赤嶼(大正島)は琉球の国境の島であると主張した。これに対して、中国側は「琉球との境に向かって進む、その境の名は赤嶼。」と解読すべきと主張し、赤嶼(大正島)そのものが国境であると主張した。

 ところで同じ郭汝霖が同じ年に重編使琉球録の中に「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる……六日午刻、風が吹き、船が進み、土納己山(渡名喜島)が見えた。土納己山は琉球の案山(界山)である。」と書いた。つまり、大正島は琉球との境でありながら、渡名喜島も国境である。

更に、1719年(清・康熙58年)、徐葆光が中山傳信録に「姑米山琉球西南方界上鎮山」と記載した。このように台湾北部沖から琉球までの間、ほぼ一直線の航路の上の島々に、界山、鎮山、案山など国境と思わせる表現が無秩序に使用されること自体が「国境」がなお未確認のことを示唆すると考えられる。或いは、界山、鎮山、案山などの名詞は「国境」ではなく、「針路の目印」である可能性が高いことを示唆すると考えられる。

中国側は「赤嶼(大正島)そのものが琉球との国境であり、赤嶼の東の久米島からは琉球領であるため、赤嶼から西、つまり尖閣諸島全体は中国の台湾の付属島嶼だ」と主張してきた。ここで我々は仮に「赤嶼(大正島)は琉球の国境の島でなく、赤嶼(大正島)そのものが国境である」という中国の主張に百歩譲って、そして、明王朝、清王朝は果たして「釣魚島全体は中国の台湾の付属島嶼」を主張することが可能かどうかを検討してみたいと考える。

バタヴィア城日誌によると、1624年中国の明王朝とオランダの間で行われた澎湖島休戦協議で、明王朝は台湾を無主の地として認識していることをオランダ側に表明し、台湾領有を勧めた。この協議の成立により、これまで中国側の台湾とその附属島に対する如何なる主権主張の根拠に繋がりそうな歴史記述の効力は皆無となり、また、台湾に近い尖閣諸島に対しても同様である。

同一時期に明王朝側も類似な記載が残されている。例え顧祖禹の讀史方輿記要卷九十九に「總兵兪諮皋者,用間移紅夷於北港,乃復得澎湖」と書いていて、何楷疏の春明夢餘録に「台灣在澎湖島外,水路距漳、泉約兩日夜,其地廣衍高腴,可比一大縣;中国版圖所不載」と書いていた。

また、明史には台湾を朝鮮、日本、琉球、安南(ベトナム)、呂宋(フィリピン)と一緒に外國列傳に載せている:「鶏籠山(台湾)は澎湖島の東北に位置するため北港と呼ばれ、東番とも称す。土地は広大で山野は深く、湖沢は広い。集落が散らばり、君主がいない…」。清王朝が公式的に発行した欽定四庫全書も「自古荒服之地、不通中国、名曰東番、明天啓中為紅毛荷蘭夷人所據、属於日本」と書いていた。
このように明王朝が台湾を所有しない歴史事実を前に、仮に尖閣諸島全体が台湾の付属島嶼であっても、中国の領土にはならないことが明白である。


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