【寄稿】日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし(三)

【寄稿】日本は尖閣問題について早急に台湾と對話すべし(三)    

       柳原 憲一(医師・平埔族文化研究家)

清王朝と台湾

引き続いて尖閣における清王朝の存在を検証したいと思う。
清王朝は1683年(清・康煕22年)の台湾遠征以来、徐々に台湾における支配領域を広げたが、最後まで台湾を全島領有しなかった。

1867年(清・同治6年)、アメリカ商船ローバー号(The Rover)がバシー海峡で遭難し、台湾の最南端に上陸した乗組員は先住民に殺害された。事件発生後、アモイ駐在アメリカ公使チャールズ・ルジャンドル(C.W.Le Gendre)が清帝国に交渉したところ、「生番の地は中国に属せず、出兵し難く」との返答を受けた。これを受けてアメリカ政府は清帝国が台湾全島を領有していない事を確認し、台湾の最南端に出兵した。この戦争の後、アメリカ政府と台湾南部十八社連合が恆春で「南岬条約」という完全平等な海難救助条約を締結した。

1878年(清光緒4年)、清帝国は加礼宛戦争でカマラン族とサキザヤ族連合軍を撃破、排除し、花蓮を占領した。

1895年(清光緒21年)清王朝は終始台湾を全島支配しないまま、日清戦争の敗戦を迎え、台湾を下関条約で永久割譲した。島の半分しか支配していない国が島全体の主権を他国に譲ったこと自体が非常識である。

清王朝は1912年2月12日まで、尖閣諸島を「発見」したり、「有効占領」したりするような事実を証明できるものを残すことなく王朝が滅びた。

一方、日本はご存じのように、十分な調査と法的手続きを踏まえて、1895年1月14日閣議で尖閣諸島を領土に編入した。その翌年から終戦まで、島における国民の居住、事業の展開など「有効占領」を満たす和平かつ継続的な國家権力の行使が十分行われていた。また、この継続的な「現実の支配」に対して、係争国格の清国は日清講和条約調印時の1895年4月17日までだけではなく、清朝が滅びた1912年2月12日までも、一度も異議を唱えることはなかった。さらに、清朝の後継政権である中華民国の国家元首である孫文も、袁世凱も日本に対して多額な借金を度重ねて要求したが、尖閣の領有権について一度も触れることはなかった。よって、終戦まで尖閣諸島は確かに日本の領土であると考えられる。


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