【宮崎正弘】中嶋嶺雄先生追悼

【宮崎正弘】中嶋嶺雄先生追悼 

追悼 中嶋嶺雄先生

 中嶋嶺雄先生が急逝された。

 すでに大きく報じられたうえ多くの方々が追悼の言辞を発表されている。

 わたしが真っ先に思い出す光景は、中嶋さんが奏でたバイオリンである。
 アジアオープンフォーラムが中嶋さんの故郷・松本市で開かれた最終日、名物のスズキ・バイオリンの合奏が終わり、次の幕間にバイオリンを手にした中嶋さんが登場され、ソロで弾かれた。曲名は忘れたが、わたしが連想したのは、このやさしい音色を弾き分ける力、これが中国評論に、あるいは教育に発揮された、あのきめの細かさに通じるのかと感心しことだった。当時、中嶋さんは東京外国語大学の学長だった。

 一方、中嶋さんには豪腕なところがあって、毀誉褒貶もついて回ったが、あの気働き、あるいは他人への気遣いはその人が生来持つ特質。人間性に由来する。面倒見がよく、記憶力が逞しいほど旺盛で、小さな相談事でも次の機会にちゃんと覚えておられる。
 わたしも何回か相談事に赴いたのは台湾政治がらみだったが、氏の論文や著作のように理路整然と方法を見いだされる。

 第一に中嶋さんは教育者であり、教育への熱意は激甚なものがあった。秋田国際教養大学に賭けた後半生は、すでに多くの逸材を社会に生み出し、日本にも教育改革をかように実践した教育者がでたことを喜びとした。その前は東京外国語大学教授、同学長。そして教え子から夥しい有能なるチャイナウォッチャーが巣立った。

 第二に台湾との友好のため身を粉にして尽くした業績は、誰もが認めるだろう。実際に、中嶋さんが李登輝閣下と相談して、日台友好と相互理解深化のために開始された「アジアオープンフォーラム」は十二回連続し、日本と台湾両国ばかりか、他の諸国からも学者、ジャーナリスト、作家、財界人、論壇人など多彩な人選とテーマの厳選に平行し、資金集めは住友電工の亀井さんが中心となって引き受けられ、毎年、台湾と日本とを交互に、しかも歴史的な都市を選んで開催されたのだった。

 そうそう、当時台湾行きの飛行機は羽田からで、わたしが搭乗した機にはアジアオープンフォーラムに参加する大宅女史、佐々敦行、日下公人、椎名素雄氏らも乗っておられた。顔見知りの新聞記者等は先に開場入りしていた。
 わたしは高雄、台南、台中、台北と日本では松本の会に呼ばれて参加し、愉しい議論や夕刻の宴会を体験した。

 第三は李登輝閣下との特別な親密交遊で、李総統が来日されたおり、その準備に忙殺されながら殆どの行程に随行され、行く先々での難題、トラブルを矢継ぎ早に解決された。このようなイベントでは誰かが強引に主導権を取らなければ実現せず、船頭多くして船山に上るという結果になる。だから豪腕が必要で、あのやさしい中嶋さんが時折見せた強引なリーダーシップは見事だった。

 亀井正夫氏の葬儀にも律儀に参列され、奥の献花台で目があったので、黙礼の挨拶を交わした。早稲田大学が台湾研究所を設立したときは台湾の総統府とテレビ実況でつなぐシンポジウムがあり、司会を兼ねた中嶋さんはちゃんと小生を最後に指名し、陳水篇総統との質問の時間を取ってくれた。拙著を読でおられると感じたのは、会話の端々にでてくる話題で、了解できた。

 中嶋さんが編集した『超大国 中国の本質』(ベスト新書)でも黄文雄、渡辺利夫の各氏に混ざって私の小論も取り上げて下さった。
直近でも二つほど研究会に呼ばれたが、いずれのわたしが外国へ行っていたため欠席となった。ということは最後にあったのは一年前の正論大賞受賞パーティに席だったろうか。すこし痩せておられたので大学運営の心労が重なったのだろうか、そのことだけが気になった。

猛烈な教育者にして、しなかやながら鋭利な観察眼。その確かな目で中国をみていた。享年76。

合掌。


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