【台湾紀行】蘭嶼(再録)

【台湾紀行】蘭嶼(再録)
令和3年9月18日
西 豊穣

 台湾本島の太平洋上東南に位置する蘭嶼を筆者が初めて訪れたのは2011年8月である。この初回時の印象を基にして翌年2012年5月に『台湾の声』へ投稿した。その後2013年6月、更に2021年5月に再訪、再々訪する機会に恵まれた。どの訪問も数日間の滞在に過ぎないので断片的な比較に為(な)らざるを得ないのであるが、十年前と現在の蘭嶼は筆者のような外来者にとっては然程〔さほど〕変化が無いように見えた。そこで、前回投稿時以降メルマガ『台湾の声』のサーバーが代わり前回の投稿分を検索し辛いという事情もあり、又その後新しい読者も加わったと予想されるので、前回の投稿記事をそのまま再録させていただき、現在の蘭嶼として紹介することにした。第二、三回目の訪問で新しく見聞きした内容については次回投稿時にカバーしたいと思う。尚、前回投稿記事の中で更新しておく必要のあるものは新註として付記した。

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【台湾紀行】台湾古道シリーズ―蘭嶼
平成24年5月1日

<楊南郡>
 蘭嶼は台湾本島の南東沖(緯度上は墾丁国家公園の真東)、台湾本土最南端の鵞鑾鼻から41海里(約75キロ)の太平洋上に浮かぶ周囲40キロ程度の島である。台湾領有の島嶼の中では唯一原住民族が先住民として暮らす島である。その海洋原住民族は、日本の台湾領有後間も無く同島を踏査した鳥居龍蔵に依り、ヤミ族と呼称され、現在まで普(あまね)く使われてきたが、1998年になりタオ族に改称された(新註1)。タオ族の人口は現在4,000人前後(註1、新註2)である。

 蘭嶼は日本時代は紅頭嶼と呼ばれていた。その理由は現地に出掛けてみればすぐ判るが、島の最高峰である紅頭山(標高548メートル)とその両翼の頂上稜線上が赤いからである。私がこの島を訪ねた際この紅頭山に登頂することも目論んでいたのだが、現地の方に「今は登る人なんかいない」と言われ、加えて日中は半端な暑さではないことを即座に了解したので、あっさり断念した。従って、この赤の正体が岩なのか、土なのかは未だに判らない。蘭嶼自体は火山活動に依り形成された島である。

 台湾古道シリーズの中で蘭嶼を取り扱うのは、日本時代作成の地形図上の道路と現代の自動車道とが全く変わっていないことに気付いたからだ。島を一周する周廻道路と、島のほぼ中央部を南北に横断する一本の道路で構成されており、平野部がごく僅か、海岸沿いに点在する六つの集落は、日本時代とその位置と数は変わらない。変わり様がないと言われればそうかもしれないが、私にしてみれば立派な古道である。

 もう一つ、『台湾の声』の読者に蘭嶼を紹介しようという気になったのは、蘭嶼から戻った後程なくして或るDVDを見たからである。そのタイトルは『縦横山林間―鹿野忠雄』(國史館、2011年9月出版)、このDVDの存在を知ったのは、金子展也氏のブログ『台湾に渡った日本の神々―今なお残る神社の遺跡』を通じてである。鹿野忠雄のことは以前にも台湾古道シリーズで何回か紹介したことがある。台湾の博物学、民族学のパイオニアとして大きな足跡を残しただけではなく、山岳家として、台湾人山岳家に今でも読み継がれている『山と雲と蕃人』を残し、最後はボルネオで行方不明になったとされる。

 このDVDを見始めて私があっ、と思ったのは、まず、導入が蘭嶼から始まったこと、そして、その案内役が、台湾古道研究の第一人者、DVD撮影時80歳の楊南郡氏(1931年・昭和6年生まれ、現台南市龍崎区出身)(新註3)だったからだ。つまりこのDVDは、鹿野忠雄の足跡を楊氏が案内役として紹介する形をとっており、楊氏はこのDVDの収録の為、鹿野忠雄縁(ゆかり)の東京大学京都大学まで足を運んでいる。私は何時かは楊氏の日本語を聞いてみたいものだと願っていたが、DVD中ではその日本語で存分に語っておられる。尚、同DVDは字幕、ナレーションは日本語、英語でも供されている。先程、「台湾人山岳家に今でも読み継がれている」と書いたが、それは楊氏がこの名著を中国語に翻訳したからだ。日本では現在は文遊社から同書は出版されているが、その解説、注釈は楊氏の手に成るものである。戦後70年になろうとしている現在、同書に本当の意味で註を加えられる日本人は最早皆無ということである。

 タオ族の伝統祭儀であるトビウオ祭り、チヌリクラン(タオ族の十人乗り伝統漁船)進水式等を代表とする蘭嶼の観光地としての魅力に併せ、台湾電力核廃棄物貯蔵所に関する台電対住民の争議(註2)(新註4)は、今現在は台湾に興味のある日本人、とりわけ『台湾の声』の読者には広く知られていることだと思われるので、それらの紹介は最小限に留めることにし、今回は私が初めて蘭嶼に渡り一泊二日した際の印象を時系列順に紹介することにする。

<トビウオ>
 台湾に住み始めてから十一年目にして初めて蘭嶼に渡った。昨年八月のことだ。それまで何度もそうしたいと願ってはいたが踏ん切りが付かなかった。これまで台湾山中の古道ばかりを紹介してきたように私の関心は専ら山であり、海では無かったというのが言い訳である。

 その日は、タロコ渓谷奥深くに残る日軍墓葬群(「合歓山越嶺古道」で紹介したタロコ戦役時の佐久間総督騎下の戦死者墳墓、同投稿末尾註4を参照)の探索を企図し花蓮方面へ向かう準備をしている最中、突然、蘭嶼に行こう!と閃いた。台湾南部の天気予報を確認すると、当分晴天が続きそうである。直ぐに、旅行社に当ると翌朝のフェリーの席に空きがあった。蘭嶼に渡るには、フェリーと飛行機の二つの方法があるが、前者は台風の関係で通常は清明節(墓参りを行う。凡そ新暦4月5日)から仲秋節(十五夜、旧暦8月15日)までの間だけ運航されている。本土側発着港は後壁湖(屏東県恒春鎮)と富岡(台東市)の二魚港。どちらからも蘭嶼まで三時間程度掛かる。後者は徳安航空が日に往復6便を台東空港との間で運航させている。私が断然墾丁国家公園の南湾西岸に位置する後壁湖漁港からのフェリーを選んだ理由は二つ、台湾本島最南端沖を通過し、且つ、本島を海上、つまり海抜ゼロ・メートルから望むこと。それと、トビウオの飛翔を見ること。

 私は、所謂南洋にはツアー等これまで全く縁が無いので、そこに広がる空と海の色は全く想像の世界である。フェリーが出航して暫くして気付いたのは海の色が急速に濃くなること。和色で表現すると、空は紺碧(こんぺき)で青が主体だが、海の色は簡単に紺色(こんいろ)、紺青(こんじょう)を通り越し、最後は黒一歩手前の鉄紺(てつこん)まで変化する。何時かは高雄-基隆間を運行するフェリーに乗り、嘗てのオランダ人、スペイン人の船乗り達と同じように新高山(現玉山)を台湾海峡から望んでみたいというささやかな夢がある。というのは、海上から見る新高山は、地上から眺めるのと異なり、海上から競り上がるようにして相当な高度感を持ち天空に浮かぶ感じがあると何処かで読んだことがあるからだ。新高山は無論見えないだろうが、せめて中央山脈南部、例えば関山とか北大武山が普段とは全く異なるイメージで見えてくることを期待したが、残念ながら当日は天気は良くても本土側は雲が多く確認出来ず。

 フェリーに同乗している人々が口々にトビウオが見えたと言い出し始めた。私には一向に見えない。随分後になって私には何故見えなかったのか?合点が言った。私はトビウオに対し固定したイメージを持っており、そのイメージに合致したものを懸命に海上に探し求めていたからだ。全長30~40センチは食卓に乗るサンマと同じ程度だから目の前にある限りは相当大きい。ところがこの程度の大きさは大海原では点でしかないことがまず大きな誤解。トビウオはそう呼ばれるぐらいだから、文字通り飛ぶわけだが、私の中の飛ぶとはイルカの跳躍、つまり、飛ぶ、或いは翔ぶでは無く、跳ぶをイメージしていた。ジャンプしては海に暫く潜り又ジャンプを繰り返す。。。初めて目撃出来た時は、予め強固に形成されたイメージと余りにも掛け離れており拍子抜けした。そう、文字通り、飛んでいる、小鳥のように―すぐに想起したのは、嘗てアメリカに住んでいた時分によく庭先で見掛けたハチドリ(ハミングバード:最も個体の小さな鳥類グループ)であった(註3)。

<ヤギ>
 フェリーが蘭嶼の玄関口、開元港に近着き、鮮やかな緑の滑らかな山肌が目を射るようになると、まず私の頭の中で響き始めたのは「バリ・ハイ」、1949年初演のブロードウェイ・ミュージカル「南太平洋」の中のナンバー、尤も私が記憶しているイメージとサウンドはその後1958年に映画化(註4)されたものであるが。それらのイメージは同時に私の南洋でもある。ああ、とうとう南洋の島に来た!

 台湾本土の人気観光地を巡る足はとうに環境に優しい自転車に取って代わられた。無論、台湾大手自転車企業の成功もそれを後押ししている。台湾の島嶼を巡る観光客の足はまだまだオートバイ(日本で云う原付に加え、更に排気量が高いものが多い)が主流。但し、免許証を提示する必要は無い。殆ど日陰の無い周囲40キロの島を二日足らずで全部廻り切り、且つ興味のある場所を複数回探訪し直すには、自転車では体力が持たない。

 開元港に着いてまず驚かされたのが、炎天下、テトラポットの上で思い思いのポーズで佇むヤギ。ヤギは野生ではなくすべて飼い主が明確になっているそうだ。昔から大事にされてきて、重要な祭事に供する以外には屠殺しないとのこと。この後、全島で自動車道を闊歩するヤギを見ることになる。開元港で遭遇したヤギは暑さをものともせぬ風情であったが、別の場所で遇った一団は、橋の欄干の袂、僅かに日陰になった場所を求め、ずらり一列、腹ばいになって休んでいた。

<先達>
 蘭嶼郷公所(役場)公式サイトに曰く、1895年(明治28年)、下関条約後台湾領有を開始した台湾総督府は、蘭嶼を台東庁下に置き、人類学研究区域に指定、外来者の開発を禁じた為に日本時代を通じタオ族の伝統文化は保護されることになった。日本では文化人類学等の学問はその端緒に就いたばかりの時期であることを勘案すると、当時のこの日本政府の政策は優れて革新的だ。1933年(昭和8年)に出版された『東台灣展望』(註5)の中で著者毛利之俊が「商店も旅館も無い」と不便さを託(かこ)つ(?)記述がある。その間、台湾研究草創期の泰斗が次々とフィールドワークに赴く。これまで私が『台湾の声』でも紹介したことのある研究者を列挙すると、以下の通りである。年号は蘭嶼への初渡航・踏査である:

鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)、1897年、明治30年
伊能嘉矩(いのう・かのり)、1897年、明治30年、但し数時間のみ寄港、鳥居と面会
森丑之助(もり・うしのすけ)、1901年、明治34年
浅井恵倫(あさい・えりん)、1923年、大正12年
鹿野忠雄(かのう・ただお)、1927年、昭和2年

 これらの錚々たる先達が嘗てこの島を訪れたことがあるというのも私が何時かは蘭嶼に渡ってみたいと想い続けた動機の一つである。

<タタラ>
 島内六村の日本時代と現在地名の比較は以下の通りである。蘭嶼の玄関口である開元港(西海岸)を起点にして、南、東、北(地図上では半時計周り)の順である。環島公路と通称される屏東県郷道80号線が周廻道路であり、すべての集落はこの周廻道路上に点在している。又、紅頭村と野銀村を郷道81号線が山越で80号線と繋がっている。基本的にはこれが蘭嶼の全自動車道「網」で、例外は80号線から分岐し島の最北端にある灯台まで繋がる自動車道のみである。

ヤユウ、椰油―開元港、蘭嶼郷公所
イラタイ、魚人―蘭嶼飛行場
イマウルッル、紅頭―日本時代に最初に駐在所、蕃童教育所(紅頭嶼教育所、現在の蘭嶼国民小学校=既に廃校、東側に移転)が置かれる。大型商業宿泊施設あり。
イワギヌ、野銀―タオ族の伝統家屋群
イラヌリミク、東清―島内人口最大の村落
イララライ、朗島

 東清村では、観光用のタタラに載った。六つの村落の中でこの村が最も多く観光用の伝統漁船を擁しているように見えた。恐らく村落前に開けた海岸が一番広いからだろう。白をベースに赤と黒で彩色されたこの夙に有名なタオ族の竜骨を持つ寄せ板造りの舟は、3メートル程度の2~3人乗りをタタラと称し、7メートル程度の10人乗りをチヌリクランと称している。「タタラ」の音(おん)を聞いた時、私は或る偶然に小躍りする。というのは、私は大学時代、ボート部に属しており、タタラ川でタタラと名の付いたボートを漕いでいたからだ。博多湾(福岡市)に流れ込む多々良川のことである。タタラは現代ボート競技で云えばダブル・スカルぐらいに相当することになろうか。チヌリクランは差し詰めエイトということになろう。

 さて、同村で、軒先に下がった魚の干物を撮影してよいかどうかを傍に居た或るご老人に尋ねた所、暗にお金を払うよう促された。幾ら払えばよいのかと聞くと、500元(現在のレートで約1,400日本円)という法外と思える値段を言われたので愕然とした。近くのお店の中年のご婦人に、ここでは何処でもそうなのか?と聞くと、皆が皆そうではないが、写真を撮る時は一応聞いた方がよいということだった。野銀村の台風対策を意識した半地下の伝統家屋は、今でも現地の方が起居しているので、外来者にとっては格好の被写体なのだが、ここで撮影していたら大声で怒鳴られた。撮影を止めろというメッセージだ。では、どのようにしたら怒鳴られないのか?現地の方に案内を頼みお金を払えばいいことに程無くして気付いた。

 蘭嶼を含む台湾が日本の版図に組み込まれて以来、タオ族は良くも悪くも好奇の対象として外来人に晒され続けてきた帰結だろうと理解した。特に、戦後間も無く一般の観光客にも門戸が開かれて以来、島内の動植物、珊瑚の乱獲が進行し自然生態系が大きく破壊されると同時に、タオ族の伝統文化も大きく変遷、大部分は消失していくというお決まりのコースを辿る。しかも観光産業資本は外来の所謂「漢人」(通常原住民が原住民以外の台湾人を指す呼称)に完全に牛耳られている。尚、蘭嶼と呼ばれるようになったのは戦後、1947年からで、本島特産の胡蝶蘭に因んでいる(註6)。

 何を期待して蘭嶼を訪ねるにせよ、『台湾の声』の読者に是非立ち寄って欲しい場所は、自動車道の最高点にある測候所(正式には交通部中央気象局蘭嶼気象站)である。ここは前述のように紅頭村と野銀村を結び、蘭嶼を南北に横断する道路の最高点に位置する。島を囲む太平洋となだらかなスロープを繰り返す山々の緑の絨毯の取り合わせは絶景である。又、ここを吹き抜ける風も一品である。景観、水等の百選は今や何処でもポピュラーであるが、風の百選は聞いたことがない。台湾の風百選が募集されれば私は蘭嶼測候所を推すことにしている。この測候所は1940年(昭和15年)に開設、私が二日間の滞在で確認した唯一の日本時代の遺構である。構内には、大東亜戦争時の米軍戦闘機に依る弾痕が残る建造物がある。 (終り)

(註1)蘭嶼の全人口は4,644人(2011年9月現在、蘭嶼郷戸政事務所公開の最新人口動態に依る)。この内、タオ族は3,956人(2011年4月現在、行政院原住民族委員会に依る)。

(註2)台東県の公式観光サイトの日本語ページ(http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=HCks/3UIs4SkU2lGrlGaQa/ovciUqzT1pnXLCAqEmX3RhX6i/pPiNI5qjVXnRVCv

(註3)ハチドリは南北アメリカのみに棲息。日本でハチドリの飛翔を想像する場合は、夏の夕方、花の蜜を求めて飛び回るスズメガ類を思い浮かべればよい。

(註4)ハワイ諸島最北端のカウアイ島がロケ地。

(註5)毛利之俊原著の復刻中文版。原民文化事業有限公司から2003年4月初版。

(註6)戦後間も無く開催された国際花卉(かき)展で蘭嶼産の胡蝶蘭がグランプリを獲得したのが切っ掛けである。尚、胡蝶蘭の乱獲が進み絶滅寸前まで至ったのは何も戦後だけのことではなさそうだ。『東台灣展望』に依ると、日本統治時代も原住民は胡蝶蘭の採集・外地人への販売を許可されていたようで、1931年(昭和6年)になりやっと全面採集・販売禁止令が台東庁から出されている。

(新註1)行政院原住民族委員会や「原住民電視台」(TITV)(台湾原住民族の文化と諸問題に特化した衛星ケーブルチャンネル、2005年7月放送開始)等は、「ヤミ族(タオ族)」という表記でヤミ族の呼称を優先させている。

(新註2)蘭嶼郷公所公式サイトに依ると、2021年8月時点で、蘭嶼郷全人口は5,082人、内原住民人口は4,250人。

(新註3)2016年・平成28年逝去、享年84歳。


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