【台湾紀行】南蕃騷擾殉職警官碑

【台湾紀行】南蕃騷擾殉職警官碑

令和2年5月19日
西 豊穣

<プロローグ>

今年の三月、東京在住のM氏より突然メールを頂いた。筆者の『台湾古道』ブログ中、パイワン族「大亀文王国」に関する記事の中で紹介した、一基の慰霊碑、「南蕃騷擾殉職警官碑」に対するご質問であった。M氏は最近になり同氏のご曽祖父が警官にて台湾でお亡くなりになったことを知り、国会図書館の「台湾警察遺芳録」を閲覧した所、「大正3年11月17日、内文社で相澤警部が負傷(警視に昇進して12月9日死亡)、また巡査4名が戦死、巡査1名が負傷(22日死亡)」との記述を発見、その戦死した4名の内一人がご曽祖父と同姓同名であることを確認したのだが、「相澤警視と他巡査四名」の氏名を南蕃騷擾殉職警官碑の碑文中に確認出来なかっただろうか?という内容だった。と言うのも、筆者のブログ記事で、昭和10年(1935年)6月6日付け邦字紙『臺灣日日新報』夕刊漢文記事「南蕃騷擾殉職警官碑除幕式挙行」の転載・翻訳として「高雄州潮州郡内文社にて、大正3年、南蕃騒擾事件が発生、相澤警視と他巡査四名は原住民に馘首された」と紹介したからだ。M氏のご質問を受けて、筆者自身、台湾のサイト内で提供されている台湾総督府官報(府報)(註1)を検索、M氏のご曽祖父を含む「相澤警視と他巡査四名」が靖国神社に合祀されたことを確認した。

<大亀文王国>

筆者はこの南蕃騷擾殉職警官碑を探し出すのに足掛け三年程を費やした。碑の現物を確認したのは2012年4月である。最初にこの碑の写真を見たのが何時だったか?は忘れてしまったが、酷く写りの悪い写真だった記憶がある。当時、パイワン族の今は遺棄された旧集落を精力的に踏査していた時期だった。碑探査の過程で、ホームページのタイトルに「大亀文」、「内文社群」、「caqovoqovolj」の三単語が躍る台湾大学人類学系主宰のサイトに往き当たった。サイトのコンテンツは謂わば「大亀文王国プロジェクト」(註2)と呼べるもので、初めてこの王国の存在を知った。このサイトの中で南蕃騷擾殉職警官碑と思われる、そう昔でもない時に撮影された三枚の写真を見付けた。パイワン族内文社後裔に依る2008年8月に挙行された、所謂「尋根之旅」(当時用いられたバナーには「重返大亀文王国」の文字)の折に撮影されたものだが、当初はそのような原住民の活動に対する深い知見も無ければ、そもそもこのサイトの閲覧者に対するメッセージさえ良く判らなかった。判ったことは、大亀文王国の「版図」が現在の行政区域に依ると以下の二県三郷六村に跨っていること(屏東県獅子郷内文村、同内獅村、同獅子村、同南世村、同県牡丹郷東源村、台東県達仁郷安朔村)、その内、内文村の父祖の地である内文社が大亀文王国の「首都」に相当しそうなこと、その碑はその旧首都に現存しているようだということだけだった。中央山脈の南端を形成し平野部が全く無く、屏東県の中で行政区域面積が最大の獅子郷の相当部分が嘗ての大亀文王国の凡その版図と言えそうだが、今現在後裔の集うこれら村々の行政中心は、同じ山間部を移遷先とする内文村と東源村を例外とし、全て海岸部に移遷している。

ところで、「caqovoqovolj」を当時の日本人は当時どう表記していたのだろうか?「ちやこぼこぼじ」が一つの回答である。これは、パイワン族の小村、牡丹郷石門村中間路集落の2009年8月に発生した八八水災(モーラコット台風)後の移転先の永久屋(災害復興住宅)を訪ねた際、その永久屋の案内板文中にこのまま平仮名で記載されているのを見付けた。中間路集落の祖先は大亀文王国の首都たる内文社から移遷して来たとの由縁が記されていた。

清朝に依るパイワン語の漢音訳である大亀文王国という呼称は堂々たる響きがある。今は草叢の底にひっそりと沈んでいるパイワン族旧集落群に何故「王国」という名が冠せられ得るのか?その答えは、森丑之助の『生蕃行脚』(註3)の中に明確に記述されており驚いた:「台湾の各蕃人中で、其過去に於てパイワン族の如き社会組織を有し、一種の小規模ながら国家的統一機関を彼等の一の群、即ち部族毎に有して居った(中略)([王|朗][山|喬])上蕃十八社蕃の過去に於ける大股頭人、二股頭人、三股、四股頭人と各小社の小頭目なり、又は大股頭人の住める大社と小社との関係の如き、恰も我徳川時代に於ける将軍家、御三家、諸大名の如きもので、又これ等の階級者と一般人民の関係も、階級的に貴賎の差別が因襲的に一般が当然として是認して居った感念に於いても相似よった点が見える。往時に於ける大股頭人等の尊栄は大したもので、殆ど大将軍の如き威厳を有し、其旅行の如きも全く大名行列であったのだ」。引用文中の「上蕃十八社蕃」が内文社群、即ち大亀文王国のことであり、同書の監訳者に依るその部分の註に、最大の集落は内文社で、その勢力下にある住民はチャオボオボルと呼ばれたとある。又、台湾サイト上で探し当てた『オランダ領有時期に於ける大亀文王国発展研究』(註4)という論文の冒頭に、南部パイワン族伝説中の「大亀文王国」は、17世紀に於けるオランダの台湾領有時代には既に「国の中の国」の「酋長」的存在であり、「国家」成立の為に必要な四つの基本要素、即ち、領土、人民、主権、並びに政府を具有しており、最も多い時で二十三個もの集落を統治していたとある。更に、大亀文王国の名が初めて西洋の文献に「Tocobocobul」として登場したのは、1638年(日本では寛永15年)、オランダ東インド会社の記録中だったそうだ。

<南蕃騷擾事件>

第五代台湾総督佐久間左馬太による「五箇年計画理蕃事業」(明治43年:1910年~大正3年:1914年)の一環である、原住民に対する銃火器没収の命に端を発した、原住民対台湾総督府の武力抗争が台湾各地で頻発した。この内、大正3年、パイワン族居住地である南台湾で連続的に発生した同武力抗争を南蕃騷擾事件、或いは南蕃事件と呼んでいる。日本が台湾領有を開始した当時は、既に原住民の間に銃は相当浸透しており、狩猟を日常とする原住民には生活必需品だった。当事件は、原住民219集落に広がり、収拾するのに五箇月を要したそうだ。詰り、内文社にも飛び火していたということだ。その中で、四林格(牡丹郷四林村)事件は良く知られており、旧集落地(シナケ社)跡に、大正8年(1919年)、日本人に依り建立された日本人犠牲者の慰霊碑である「忠魂碑」が無傷で現存している。これに対し、2005年、忠魂碑に並立させる形で、同事件で犠牲になった原住民の冥福祈願と勇気顕彰を込めて「四林格事件紀念碑」が建立された。建立時期が離れているとはいえ、両者の碑が並立しているのは非常に珍しい例である。内文社の南蕃騷擾殉職警官碑は、この四林格社の忠魂碑に相当するものである。

<内文社>

内文社を探し始めた当時は、筆者の手元にあったのは、市販の10万分の1道路地図帳と日本時代の5万分の1地形図集『臺灣地形圖新解』(註5)のみ、後者で内文社は確認出来るので、前者の地図上で凡その当たりは付けられても余りにも心細い。探査に時間が掛かったのは、当時筆者の仕事場が中国に移っておりそうそう頻繁に台湾に戻れなかったという事情もあるが、位置を確認出来る道具が貧弱であったこと、前出の「大亀文王国プロジェクト」サイト内の尋根之旅時の行程表が掲載されており、内文社への入口が内獅村であることが明記されているにも拘らず、それに気付くのが遅れた、詰りコンテンツの読み込みが足りなかったことである。これらの事情に増して筆者を悩ませたのは、内文社と思しき地点と移遷先である内文村の距離である。地図上の直線距離でも20数キロもある。内文社の在処が中央山脈西側、台湾海峡に近いのに対し、新内文社たる内文村は、獅子郷の最東端、中央山脈の東側にあり、もう太平洋岸に近い。しかもこれら二点を地形的に分断している二つの大河(枋山渓、楓港渓)と、文明的に分段している台湾鉄道南廻線と国道に相当する台9線(旧省道9号線)に隔てられている。内文社の最寄りとなる内獅村市街地と内文村の間の自動車道延長は40キロもあるのだ。このようなケースは原住民集落の新旧の距離的な関係としては極めて稀だと思われる。しかも内文社は現在の行政区画上は内獅村に属する。南蕃騷擾殉職警官碑が内文村には存在しないのは明らかだったが、内文社の位置に関し手掛かりが掴めるかもしれないと思い、内文村を訪問した。案の定、大亀文王国の首都を彷彿とさせる文物には出会えなかったが、村内の2000年に建てられた「獅子郷内文村遷村五十三週年記念誌」碑に依ると、1947年、戦後間も無く内文社から現在の地への移村が決定されたとあった。

市販の道路地図上に、内獅村市街地から中央山脈脊梁側へ産業道路と思しき道路が伸びているので、これを先ず辿ることにした。予め内獅村の派出所(屏東県政府警察局枋寮分局内獅派出所)に出向き事情を説明し、普通乗用車でも入れることを確認、進入許可を得た。その道路を8キロ程辿ると、空き地に行き当たった。空地の入口に片方だけの門柱が立っており、真新しく見えるプレートが嵌め込まれ「(上段)高雄州潮州郡(下段)内獅頭公學校」と刻まれていた。日本時代の行政区域名であり、公学校も日本時代の呼称、今現在海岸部にある内獅国民小学校の前身である。公学校跡の裏側に廻ると石板屋の集落跡も確認出来た。即ち、現在は内獅村と呼ばれているが、その父祖の地は内獅頭社であることが判り、図らずもこの内文社への入口まで辿り着けた幸運を喜んだ。では、ここから内文社までどうやって辿り着けるのか?

最終的には、内獅村の派出所と相談し、内獅村在住のR理事長を紹介して貰った。三箇月後、派出所で待ち合せ、バイクに跨ったR理事長に先導して貰った。前出『臺灣地形圖新解』上では、日本時代の各集落を繋ぐ連絡道(「理蕃道」)は、台湾海峡海岸部から内獅頭社までの距離が約5キロ、内獅頭社から内文社までが約6キロと読める。現在は、前者は産業道路が錯綜としているが、後者の6キロは当時のままと思われ、車で約10分程は進入可能、その後もバイクなら更に走行可能、最後の半時間のみ徒歩、6キロ全部を歩き通せば、3時間程度が目安だと思う。内獅頭社の標高が約650メートル、内文社入口の標高が約800メートルなので、高低差は小さい。

<南蕃騷擾殉職警官碑>

以前明らかに産業道路として拡張した道幅の広い理蕃道が下りに掛かり、それが降り切った場所はコンクリートの基礎が整然と残った広場だった。嘗て日本人に依り設営された、台湾原住民集落の中でも恐らく有数と想像される規模鴻大な駐在所、教育所、衛生所等の官舎群が集合していたと考えられる場所だ。内文社の最上部に当る。そこでまず筆者等を迎えたのは樹皮全体に薄い緑の苔を纏った、樹齢数百年かと紛う巨木であった。茄苳樹(かたん、アカギ)である。R理事長が「この樹は成長が速い。自分が高校の頃は、この樹は無かった。当時はここまで車で入れた。」という意外な話をしてくれた。その横には榕樹(ガジュマル)の巨木も同時に侍っていた。南蕃騷擾殉職警官碑は、筆者等が入って来た場所からすると一番奥に鎮座していた。前出の「臺灣日日新報」記事中に、当該石碑の建立地点として、駐在所の東外れ、極めて狭い場所との下りがある。石碑とはいえ、完全な日本の墳墓様式であり、損傷、故意の破壊は見当たらず、南台湾のジャングルの中に忽然と起立していた。石碑正面の文字は最早剥落しているので、実際「南蕃騷擾殉職警官碑」と刻まれていたかどうかは確認の仕様が無かった。右側面に「昭和十年XXXXX日建之」の刻字、日付けの数字が並んでいると思われたが、Xの部分は削られセメントを埋め込んだ跡があり判読が難しかった。その他の面には文字を彫り込んだ後は見付けられず、従って「相澤警視と他巡査四名」の氏名は確認出来なかったと冒頭に登場いただいたM氏には報告した。官舎群の下方に、前出の「臺灣日日新報」記事中にある当時300余人を擁した内文社の大集落跡があるのだが、時間が押しており探訪は叶わなかった。因みに、R理事長は内獅頭社でも内文社の出身でもない。これら旧二集落の間の小集落、霧里乙(プリイツ)社の生まれで、内文社からの帰路、その旧集落跡を案内して貰った。

一つ判りにくいのは、実際の事件発生と碑の建立の時間的な隔たりである。20年もの年月がある。これは何を意味するのだろうか?筆者の手元に、或る友人からいただいた徳富蘇峰、野上弥生子等の筆に依る台湾紀行文集のコピーがある。それらの紀行文を読むと、台湾領有四十週年(1935マイナス1895)に当る昭和10年は台湾各地で盛大に記念行事が挙行されたことが窺い知れる。このような碑建立は、領有後四十年にして往時の台湾発展の隆盛を築く過程で、不運にも倒れた人々に対する一連の慰霊行事も執り行われ、その一環ではなかったろうか?

<内文祠>

以上の内文社跡地の踏査の最中、筆者の頭の片隅に常にあったのは、前出の「大亀文王国プロジェクト」サイト中の尋根之旅行程表中の一行、「動身前往神社」(神社へ出発)であったが、官舎群の規模の広大さに驚き、これではそうそう神社跡を探し出すのは容易ではないと端から諦めていた。神社跡には結局出会えなかったが、短時間にも拘わらずこれだけの物に出会えたのだからと納得し帰路に就いた。内文社入口に向かう坂を登り始め、ふと左上を見上げると日本の城壁を連想させる優美なカーブを描いた石垣がある。かなりの急斜面の途中に拵えてあるので、土砂の流れを食い止めていることだけは判った。それが何であるのかを確かめる為に斜面を駆け上がった。登り切ると、その石垣は一振りの道を支えていることが判った。僅かに坂になったその道の先にパイワン族特有の石板になる壁が見えた。よく見ると、階段だ。これで完全に、その道と階段が、神社遺構、即ち「内文祠」に至る参道と祠本殿であることを確信し、その幸運に興奮した。所々鉄筋が剥き出しになった精緻な本殿基壇を除き、鳥居や祠の木造部分はすっかり消失しているが、恐らくは、台湾の山深くに残る祠(神社)遺構としては最大規模にして最高の保存状態を保っているのではないかと思った。樹木を定期的に切り払う等の積極的な保護を加えていかない限り、熱帯雨林の成長に押され人工の石組みは徹底的に破壊されていく。。。どちらが良いのか?しかもこれはパイワン族の神ではない。この稀有な幸運を密かに喜ぶと共に、思い悩んだ。

<エピローグ>

今年の2月28日の和平記念日に、中央社「フォーカス台湾」より配信されたニュース(註6)、「文化部、先住民の歴史事件を調査、当事者納得の記念碑設置へ」の全文を転載し、今回の投稿記事を閉じることにする:

(台北中央社)清朝時代や日本統治時代に東部・花蓮県で発生した先住民にまつわる歴史事件について、文化部(文化省)が調査に着手している。27日に台北市内で開かれた「総統府原住民族歴史正義・移行期の正義委員会」(原転会)の会合で、同部の李連権常務次長が報告した。

李氏によれば、先住民の歴史事件は計18件。文化部と原転会は先月初旬、歴史事件の記念碑に関する会議を開き、まず花蓮県で起きた5件を調査し、結果に基づいて、先住民の立場に立った記念碑の設置を目指す要綱を制定することが決定された。

5件はそれぞれ、▽アミ族が土地の開発問題で清朝と衝突した「大港口事件」(1878年)、▽タロコ族が旧日本軍と森林資源などを争った「新城事件」(1896年)と樟脳採取をめぐってぶつかり合った「威里事件」(1906年)、▽アミ族の労働者と日本の警察との紛糾が武力衝突に発展した「七脚川事件」(1908年)、▽タロコ族が武装蜂起して旧日本軍に平定された「タロコ戦役」(1914年)。いずれにも記念碑が設けられているが、当事者である先住民に寄り添ったものでなかったほか、設置場所や管理維持などが問題視されるケースもあるという。(終り)

(註1)國史館臺灣文獻、http://taiwannokoe.com/ml/lists/lt.php?tid=Fh6PzkMxKcK5vAqZ4wGPX7Eyq90YZEYSk0KtVpNokInRhX6i/pPCNI5qjVXnRVCv

(註2)https://caqovoqovolj-project.tw/

(註3)『幻の人類学者
森丑之助 台湾原住民の研究に捧げた生涯』楊南郡著、笠原政治他編訳、2005年7月30日発行、風響社

(註4)原題:『荷據時期大龜文(Tjaquvuquvulj)王國發展之研究)』『台灣原住民研究論叢第六期2009年12月第157~192頁』(蔡宜静、南華大学)

(註5)上河文化、2007年3月2日出版、原図:大日本帝國陸地測量部、台灣總督府民政部警察本署

(註6)http://japan.cna.com.tw/news/asoc/202002280010.aspx


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