【台中市】寶覚寺で行われる慰霊祭

【台中市】寶覚寺で行われる慰霊祭

  メルマガ「遥かなり台湾」より転載
        

 ここは台湾中部最大の都市、台中です。黄金色の布袋様があることで有名な宝覚寺境内では毎年
11月は慰霊祭が二度行われています。一つは戦前台湾で亡くなった日本人の慰霊祭で、もう一つは
元日本海軍兵ら関係者による慰霊祭です。
それで本日は境内にある日本人墓地(中部地区日本人遺骨安置所)と霊安故郷の碑(台湾の靖国神社)
について述べたいと思います。

(1)日本人墓地について
台湾日本人会主催で行われている慰霊祭は昭和36年から始まり今年で50回目。毎年台北、台中、高
雄の三か所で実施されています。台中での慰霊祭は14日午後2時半から開始されました。交流協会、
日本人会、台湾協会などの関係者及び台中在住の日本人そして回向の為に日本から本門仏立宗の僧
侶のみならず信徒らも参加してくれました。

門を入った左側に中部地区日本人遺骨安置所と書かれた慰霊碑があります。
ここの日本人墓地には戦前台湾中部で物故した日本人14000柱の遺骨を収納、供養しています。
その納骨堂に記されている説明文があるのに気付く人はあまりいません。
その説明文には下記のように記されているのです。

「この納骨堂には第二次世界大戦までに台湾に居住し、台湾にて亡くなられた日本人物故者の遺骨を
納めてあります。終戦後在留日本人はすべて祖国に引き揚げましたが、着の身着のままで物故者の遺
骨を持ち帰る余裕もありませんでした。当時唯一家族で残っていた苗栗県大湖に住む野沢六和氏があ
る日畑を耕していたところ、この大湖にあった旧陸軍病院の戦病者と思われる埋葬の遺骨を発見し、
この遺骨を丁重に拾い自宅に持ち帰り安置しておりました。その後各地から日本人墓地が荒れて遺骨
が散乱しているとの連絡が多くこのまま置くことは忍びがたく各地の日本人墓地に残された遺骨を採
骨する悲願を立てて昭和22年春より台湾全土を巡り採骨行脚に旅立たれました。この悲願の旅は十数
年に及び、約二万柱の採骨を終えたのは昭和35年秋でありました。昭和36年秋に当時の日本大使館の
肝いりで採骨の地域別に台北中和寺と台中の宝覚寺、高雄の公墓三か所に分けて納骨することになり、
一応採骨は終わりました。その後大使館が主催して年に一度の慰霊祭がこの三地区で行われてきまし
たが、その後この慰霊祭は現日僑協会が主催することになり現在に及んでいます。現在ここに納骨さ
れているのは羅東より苗栗付近までに採骨された約八千柱です。この採骨をされた野沢六和さんは中
国広東系の中国人ですが、夫人は新潟県出身の野沢ムメさんで結婚後夫人の籍に入り野沢姓になられ
たのです。この採骨には当然このご夫人のご協力があったことは申すまでもありません。野沢六和さ
んは採骨の苦労が禍して喘息を患い以来保養されていましたが昭和58年7月10日に日本の神戸郊外に
住むご長男宅にて他界されました。この崇高なる人格は永遠に私たち日本人の鑑として記憶にとどめ
たいと思います。」

 野沢さんのような人がいなかったら慰霊祭は行われることなかったでしょう。野沢さんの功績を
多くの日本人に知ってもらいたいと思います。そして、日本人遺骨安置所と書かれた慰霊碑の後ろに
回って見ると、簡単な説明文があって最後に「昭和36年(1961)3月 中華民国日本大使館」と刻ま
れています。この年から台湾(台中)で毎年慰霊祭が挙行されるようになったのです。

(2)霊安故郷の碑
中華民国国民党政権のために戦死した人々を祀る「忠烈祠」は各地にありますが、日本軍に志願して
戦死した人々は東京の靖国神社に祀られていて台湾では祀られていませんでした。昭和62年(1987)
台湾で戒厳令が解除されたのを機に、大東亜戦争で戦死した元日本軍人・軍属三万三千余柱と、台湾
住民で犠牲者となった人々の霊を、慈悲深き寶覚寺の住職の用地無償提供等により、この宝覚寺に祀
ることになり、中日海交聯誼会と日本海交会の努力で「英魂観音亭」と慰霊碑が建立されたのです。
慰霊碑のタイトルは李登輝元総統の直筆による「霊安故郷」と書かれてあり、1988年11月25日に慰霊
碑が完成したのを記念して毎年この日になると日台双方の関係者で慰霊祭を挙行しているのです。
霊安故郷の碑に関して下記のような説明書きをいただいたことがあるので、紹介したいと思います。

(注)中日の「中」は中華民国の「中」であり、「日」は日本のことを指す。聯誼会が設立した当時
は台湾の「台」の文字をかぶせることができなかった。

●この記念碑は「霊安故郷」慰霊碑と申しまして、先任の台湾総統李登輝先生が御題名下さいました
記念碑でございます。此処に、私は日本の皆々様に対し、この「霊安故郷」慰霊碑建設のあらすじと
その意義を説明させていただきます。

昔、台湾は日本の一部である事跡と歴史は皆さん御存知と思います。先の戦争において日本教育を受
けた愛国熱血あふれる台湾青年は、われが先にと日本軍人、軍属に志願し、南洋各地の戦場に駆けつ
けたのであります。その員数は20数万に上っているとの事です。これら熱血溢れる台湾青年は忠勇無
双の日本兵と生死を共に南洋各地の戦場で奮戦し国のため華々しく散華なされました元日本軍人、
軍属の台湾兵士は3万3千余柱に上っています。

その中2万7千余柱の英霊は有り難くも、靖国神社に奉祀なされましたが、終戦前戦死なされました6千
余柱の英霊は靖国神社に奉祀する事、間に合わず、南洋各地の空に無宿の野鬼となり、漂っている哀
れな有様でございます。太平洋戦争は日本の戦場拡大に因み、兵員不足と軍用物資の輸送困難とアメ
リカの広島と長崎に投下した原子爆弾により、日本は太平洋戦争に負けました。時は昭和20年8月15
日です。戦後日本に手離された台湾は、台湾として中国国民党政府の管轄を厭けながら50数年の長い
時間を受けて来ました。
戦後我ら元日本軍人、軍属の陸海軍生還者は台湾同胞の戦争で散華なされた英霊の奉祀問題に鑑み、
有志一同の資金募集と日本陸軍南星会の御協賛と資金の支援、最後に台中市寶覚寺の許可を得て此処
境内に於いて慰霊碑を建造したのであります。1985年に施工はじめ1988年11月25日に完成、同日盛大
なる落成式典を厳かに挙行いたしました。そして戦没者の遺族並び戦争生還者の英霊に対する遺徳顕
彰、英霊鎮魂の祈願に鑑み靖国神社の許可を得て2万7千余柱の英霊を台湾へ招聘と同時に南洋各地に
漂っている哀れな野鬼の英霊6千余柱をも招魂いたし、そして先任台湾総統李登輝先生の御題名である
「霊安故郷」(英霊よ、安らかに故郷へ)の慰霊碑に奉祀いたしたのであります。
爾来間断なく年に春、秋2度、盛大且つ厳かに諸英霊の遺徳顕彰、英霊鎮魂の慰霊祭を挙行いたして
おります。とくに毎年11月25日の秋の慰霊祭に於いては日本各海交会並びに諸団体から多数のお方様
が台湾へおいで下され、慰霊祭に御参列なされ諸英霊をお慰めしているのでございます。」

今年も福岡から日台親善交流慰霊団(小菅亥三郎団長)のメンバーが来る25日やって来ます。
この人たちの目的は単なる台湾観光でなく、慰霊祭に参加し、元日本兵と交流するためなのです。
慰霊祭に平成13年より参列し、今年で十回目の訪問になります。十年一昔と言われますが、毎年訪問
団を結成して10年も継続している小菅会長に敬服しております。