【傳田晴久の台湾通信】門田隆将氏講演「湯徳章と228事件」報告

◆はじめに

 今年(2017年)は、あの忌まわしき228事件から70年経過した年です。昨年の暮、著名なノン
フィクションライターの門田隆将(かどた・りゅうしょう)氏が『汝、ふたつの故国に殉ず』を上
梓された。これは228事件の犠牲者の一人、台南の弁護士・湯徳章(日本名坂井徳章)氏の悲劇を
描いたものです。

 先日、2月27日、28日に台北と台南で門田隆将氏による「湯徳章と228事件」と題した講演会があ
り、出席する機会がありました。大分時間が経ってしまいましたが、私の感じる所を報告させてい
ただきます。

◆講演概要

 この新刊書は日文と中文で書かれ、日台同時に発売されるという、出版会でも初めての試みと言
われ、注目されています。そして、228事件の70周年追悼式典に合わせて講演会が企画されました。

 台北では27日(月)に台北市長官邸の芸文サロンで、台南では翌日の28日(火)に国立台湾文学
館国際会議場にて開催されました。両会場ともすべての座席は埋まり、多くの立ち見の聴衆で立錐
の余地ない盛況でした。恐らく各会場とも200〜300人の聴衆がおられたと思います。

 VIPのご紹介、ご挨拶があり、通訳を介しての講演会が始まりました。特に注目された賓客は台
南の会場で湯徳章氏の御子息湯聰模氏であった。その他、台南の頼清徳市長、張燦[洪金]元市
長、日本からいらした金美齢さんのお姿が目を引きました。

◆台湾の英雄「湯徳章氏」とは?

 『汝、ふたつの故国に殉ず』の主人公である湯徳章氏は、228事件の際、ひどい拷問を受けなが
らも口を割らず、多くの台南の人々の命を救われましたが、1947年3月13日国民党軍によって、
「莫須有」の罪で40歳の若さで銃殺されました。

 51年後の1998年2月28日、台南市の張燦[洪金]市長は「民生?園」と呼ばれていた公園を「湯
!)章紀念公園」と命名しました。そして2014年、頼清徳市長は1947年3月13日のこの日を記念し
て、「正義と勇気の日」に指定しました。

 公園には現在、湯徳章氏の胸像がありますが、その台座には、「湯徳章律師の事跡」が以下のよ
うに刻されています。

<1907年1月6日台南縣玉井郷玉井〈當時「[口焦]吧[口年]」〉にて誕生、父親は日本人警察官
「新居徳蔵(註:旧姓は坂井であったが、熊本出身の新居トメとの養子縁組により新居姓に)」、
母親は「湯玉」、しかし、当時は日本人と台湾人の結婚並びに養子縁組は認められておらず、戸籍
上は父「湯新居」母「湯玉」と記載。

 1915年8月2日タパニー事件(註:本島人による最後の抗日武装蜂起、西来庵事件ともいう)発
生、警察官である父親「新居」は殉職、母、姉(湯柳)、徳章の3人は用務員によって救出された。

 1920年4月台南師範学校に進むも1922年中途退学。玉井糖廠に就職、そこで老人から漢文を学
び、少林寺拳法を学んだ。

 1927年台南州巡査に任じ、1929年普通文官試験合格、1934年台南州警部補に。当時警察界の台湾
人2人中の一人であり、柔道2段。1939年官を辞し、日本の東京へ赴き、苦学する。

 1942年日本高等文官試験司法科、1943年行政科に合格。

 1943年9月台湾総督府に登録、弁護士となり、台湾人の為に正義を広め、日本人が台湾人を貶め
ることに対抗。

 1945年11月台南市南区区長に推されてなり、1946年4月台湾省参議会候補参議員に当選、同年10
月台南市人民自由保障委員主任委員に就任。

 1947年1月11日台南律師公会の代表となり、慶祝第二回司法節大会に参加、同年3月「二二八事
件」処理委員会台南市分会治安組長に就任。

 1947年3月13日軍部によって『莫須有』の罪によって銃殺。獄中で酷い拷問に遭いながらも、事
件に関係した学生や一般人の名簿を明かさなかった。銃殺されるとき、跪くことを拒み、大声で
『台湾人万歳」と叫んだ。まことに文武両道に優れた傑出した人物。>

 以上のように記されていますが、手元の中日辞典でこの『莫須有』を引くと、「でっち上げの」
という訳があり、語源として、「宋代の奸臣秦檜(しんかい)が愛国者で有名な将軍岳飛が謀反を
たくらんでいるとして罪に陥れようとした。その時、韓世忠が納得せず、証拠があるかと秦檜に詰
問したところ、秦檜は“其事体莫須有”(そういう事柄があるかもしれない)と答えた。それがの
ちに、“莫須有”がでっち上げの罪名を意味するようになった」とあります。

◆門田隆将氏の想い

 門田隆将氏はこの台北・台南の両講演会で多くの事を語られましたが、強く印象に残った事柄を
いくつか列挙してみたいと思います。

・若い、有為な青年の犠牲の上に現在の平和な時代のあることを知るべきである。

・湯徳章氏の「最期」の立派さは日本人・台湾人の誇りである。氏は銃殺される最後の瞬間に台湾
 語で「わたしには大和魂の血が流れているからだ」と、そして最後に日本語で、大音声で「台湾
 人万歳」と叫んだ。

・今の台湾はどういう状況に置かれているか、南・東シナ海の状況を見るに、人権・民主・自由・
 正義を維持することができるか否か。

・日本・台湾・米国が一層の絆を深め、スクラムを組み、中国に手を出させることなく、普遍的価
 値を守ろうではないか。

・湯徳章氏が最後に叫んだ言葉の最後の意味は何か。

・228事件の70周年の意義をしっかりかみしめることが、東アジアの平和のために不可欠である。

◆湯徳章紀念公園の今昔

 湯徳章氏が銃殺された場所は、当時「民生?園」と称され、国立台湾文学館の前のロータリーの
中にありました。私が初めてこの公園を見たのは2006年頃かと思いますが、この公園の中央には大
きな孫文の銅像がありました。公園の隅にどなたかの胸像がありましたが、私は誰の胸像かは知り
ませんでした。その当時、この公園は湯徳章紀念公園という名前になっていましたが、私は湯徳章
氏がいかなる人物か知りませんでした。

 2014年2月23日、その孫文の銅像は公投護台湾聯盟と台湾独立建國大旗隊の人々によって、首に
ナイロンロープを掛けられて、引き倒されました(自由時報2014.2.23)。その後しばらくの間、
高さ3〜4メートルはあろうかと思われる孫文銅像の台座だけが取り残されていましたが、今回の講
演会の後、その公園を見に参りましたら、その台座もなくなっていました。

 現在、隅っこにおかれている湯徳章氏の胸像が、近い将来、湯徳章紀念公園の中央に移されるこ
とを願います。

◆「カエルの楽園」

 私は、昨年(2016年)10月に見つかった肺がん治療で約半年間入退院を繰り返しまして、台湾通
信を書く事ができませんでしたが、その間に門田氏の本の他に、百田尚樹氏の『カエルの楽園』
(新潮社)、石平氏・百田尚樹氏の『カエルの楽園地獄と化す日』(飛鳥新社)などを読む機会を
得ました。

 門田氏の本の中で、湯徳章氏が決起する台南の若者たちを思い止まらせようとする際の言葉に、
「ここで国民党軍の介入を許すようなことになれば大変なことになることを、諄々と説いた。彼等
の残虐性についても『ここだけの話だが・・・・・』と断った上で、具体的に語った」とあります。台
湾の人々はその恐ろしい結果(228事件並びのその後の白色テロ)を体験することになりました。

 一方『カエルの楽園』並びに『カエルの楽園地獄と化す』においては、自らの生存空間を失いつ
つある彼の国がどのようにして日本を侵略し、日本人を駆逐して、日本を自らの生存空間にするか
のシミュレーションを行い、イザヤ・ベンダサンの「日本人は水と安全はタダだと思っている」と
いう名言を引き、最後に、「何より大切なことは日本人全体が危機感を持つことです」と締め括っ
ておられます。

 台湾で生活させていただき始めて、約10年経ちましたが、当初、多くの台湾の方々が子供たちを
米国など海外に住まわせている様子を見聞きし、正直言って違和感を持っておりました。228事
件、白色テロ、史上最長の戒厳令などの話を聞き、資料を読んで参りましたが、このたびの『汝、
ふたつの故国に殉ず』、『カエルの楽園』、『カエルの楽園地獄と化す』を読ませて頂いて、改め
て台湾の人々のお気持ちが理解できるように思います。

◆おわりに

 湯徳章氏が日本人と台湾人の血を引き、いわゆる学歴もなくして高等文官試験の司法科と行政科
の二つに合格するという凄まじい努力ぶり、不正に対して決然と立ち向かう正義感の持ち主である
こと、処刑の場に臨んでの毅然たる、堂々とした態度など、お伝えしたいことは山ほどあります
が、それらについては門田氏の本『汝、ふたつの故国に殉ず』を直接お読みいただきたいと思います。

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