傳田晴久
1. はじめに
9月1日は何の日でしょうか?関東大震災発生の日、二百十日、防災の日などですが、同時に台湾の烏山頭堰堤構築工事着工の日であり、八田與一氏の妻外代樹夫人の命日でもあります。この日に合わせて外代樹夫人について書かせていただきました。
2. 何故このテーマを?
このテーマで台湾通信を書こうと思ったのは、外代樹夫人の入水動機について評価がいろいろあることを知ったからです。
ある人は、彼女は“人非人”であるという。ある人はダムを守るための人柱として身を奉げたと言います。またある方は政府によるいじめがあったと言います。
色々な評価がある中、私も入会させていただいている台湾の短歌の会、台湾歌壇で興味あるお話を伺いました。指導者の北島先生が、接頭語「み」の使い方について解説されました。その例として、外代樹夫人の辞世の句に「みあとしたひてわれもいくなり」とあるが、この接頭語「み」は非常に高貴な対象にしか用いず、明治天皇崩御に殉死された乃木将軍の辞世の句(うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり)を引かれて、ご説明くださいました。そして、外代樹夫人が詠まれた「みあと」はご主人與一氏もさることながら、それを超える「何か」を指しているのではないかと示唆されました。
もし、辞世の句の上の句がわかればそのあたりの事情もはっきりするのではないかと考えました。
3. 外代樹夫人は人非人か?
外代樹さんは金沢の出身、16歳で同郷の八田與一氏と結婚されましたが、大変な才媛で、県立金沢第一高女学校を首席で卒業され、銀時計の受賞者とのことです。
ダム建設に没頭する夫を陰で支えた外代樹夫人を顕彰するために地元の人々が企画した夫人の銅像除幕式が行われたのは2013年9月1日でした。丁度その頃と思いますが、私は外代樹夫人についての厳しい評価があることを知りました。夫人は8人もの子供を残して自分一人夫の後を追うとは何ということか。子を持つ親として、そのような勝手な女は許すことができない、ということでした。確かにそういわれて見れば・・・・。私は俄かには同意できず、何か別な意味があったのではないかと思いましたが、何も言えませんでした。
4. 「日本政府からの批難」という説
「台湾でのダム建設で現地の人たちに大変感謝されている八田の妻が、八田の死後に、そのダムに身を投げたのは何故でしょうか? 余程でないとそんなことはしないと思うのですが・・・・」と言う質問に対して、ネットの「OKWAVE」なるQ&Aサイトに次のような回答が出ていました。
「日本政府から非難されたためです。八田のダム建設は台湾総統府(当時は日本施政下ですが)が承認しましたが、日本の政府からは正式な資金援助や承認は得ず、いわば八田が勝手に建設したとされています。そのため日本の台湾統治政策がダムのせいでおかしくなったと八田は生前から非難されていました。八田の死後その矛先は妻に向いたのです。今も日本は台湾の烏山頭ダムを正式には日本の国策建設とは認めていません。八田の独断で勝手に作ったものだとしています(台湾と国交を断絶しているため当然と言えば当然かもですが)。八田の功績は台湾人には認められていますが 日本からは疎まれていたのです。彼の功績がいまだに教科書に載らないのはそのためです。」
5. 「祭品」という説(自由時報への投稿)
映画「嘉南大圳の女神」の製作を企画していた許光輝さん(電影製作準備委員會委員長)は自由時報紙(2009.11.22)の自由評論網に「殉情之謎」と題して外代樹夫人の自殺のなぞについて次のように解説しています。尚、中日辞典によれば「殉情」とは「愛情の為に命を絶つ」こととあります。
「外代樹は15歳の時(註:結婚の前年)故郷金沢で祭祀に関する驚くべき体験をしており、そのことが30年後に死に赴く心に深い影響を及ぼしていたと考えられる。外代樹は嘗て亡くなった八田與一に向かって『身をささげて祭品(祭礼に供える品)となり、烏山頭ダムを永遠に守護します』との誓いを立てていた。」
許光輝さんが「台湾と日本・交流秘話」(展転社)という本に紹介されている「八田夫妻にささげる歌」を読まれたかどうかわかりませんが、その歌は次のように記されています(メロディは「浜辺の歌」)。
夕べ烏山の湖水に
八田夫妻が偲ばれる
はるかかなたの清き流れ
嘉南平野の守り神
水湖深くいけにえの
御霊よ安らかに眠りたまえ
朝な夕なに祈りし人も
清き水藻に消えゆきぬ
6. 遺書
机上に置かれた遺書には「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」と書かれていたとのことです。末っ子の成子さんはその時、台北一女(台北第一高等女学校)の2年生、すぐ上の玲子さんは女学校を卒業し、専門学校生とのことです(「八田外代樹の生涯」楷潤著)。
高等女学校の2年生と言えば15~16歳でしょうか、外代樹夫人が八田與一氏に嫁いだのが16歳ですから、夫人は末っ子の成子も大きくなったと感じられたことでしょう。子供にとって母親は、自分がいくつになっても母親に変わりありません。長男の晃夫(てるお)さんが、「子を残して突然死んだ母を私は長い間、恨んでいた」との述懐を読んだことがあります。
7. 日本政府の非難について
「日本政府の非難・・・・」と言う説について疑問を感じた私は、土木の専門家である友人にそのQ&A回答を見せ、意見を求めたところ、次のようなことを調べてくれました。
「事業計画があまりにも大規模で、政府支出だけでは実施不可能なため、『公共埤圳官田渓埤圳組合』(土地改良組合のようなもの)を設立して(大正9年認可)、事業を実施した。この組合の管理者は、総督府土木局長、副管理者は、台南州知事が就任しており、官の組織であった。建設事業費の総額(昭和11年7月報告)49,833千円(現在価格約3,000億円)、その支出の内訳は、国庫補助12,000、賦課金(農民負担金)8,100、借入金29,747、ほかとなっており、総督府の関与する大事業であった。八田與一は、この組合の土木課長に就任し、後に烏山頭出張所長となり、事業を推進した。ただし、総督府全体から見れば、八田は組織末端の一技師であり、よくぞこのような大事業を成し遂げられたものと驚くばかりである。」
渡辺利夫氏の「小説台湾」(月刊誌「正論」令和元年8月号)によりますと、八田與一氏の名刺には「台湾総督府 勅任技師 八田與一」と記されているそうです。「勅任」技師ですから、彼が総督府で如何に高く評価されていたかが分かります。
8. おわりに
「みあとしたひてわれもいくなり」の出典を求めていろいろ調べてきましたが、未だはっきりしていません。外代樹夫人の辞世の句であることが確認できれば、夫人の入水の動機はご主人八田與一氏を超える至高の「何か」をしたったことになるかと思います。
夫人は高女学校を首席で卒業された才女、乃木希典将軍の殉死は1912年9月13日、彼女は1901年3月7日生まれと言いますから、この時11歳、翌年高女に入学していますから、乃木将軍殉死の事は知っていたでしょうし、将軍の辞世の句も知っていたでしょう。接頭語「み」の使い方も理解しておられたかもしれません。
御主人が遭難死されたのが1942年5月8日ですから、それから3年もたってからご主人の後を追うと言うのはちょっと不自然、5女玲子さんの思い出話の中に、「母は烏山頭に疎開して間もないころ、ダムを見ながら、『日本が戦争に負けたら、私はここに飛び込んで死ぬわ』と何度も話していました」とあります。八田與一氏は、家事は一切夫人に任せ、自分の仕事に没頭されたようですし、その仕事の結晶が烏山頭水庫、夫人の仕事は子育て、学徒動員で出ていた二男泰雄さんが終戦で無事に戻ってきたのが8月31日、夫人の最大の仕事、「子育て」が完了したのを確認したうえで、夫の血と汗の結晶である烏山頭水庫、 これを護るためにダムに身を投じたのではないかと思います。
僭越ながら先の短歌下の句に上の句を以下のようにつけてみました。「子等育ち為すべきことは唯ひとつみあとしたひて我もいくなり」
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