メルマガ「はるかなり台湾」より転載
前回の「冬」はいかがでしたか。今日も金花さんの作文で1999年に書かれた「忘れられない夜」を紹介いたします。
金花さんは40年に及ぶ助産婦の仕事で何と6000人の新生児を取り上げたとか。その中でも忘れられない出産の夜を思い出していたのです。
●難忘之夜
あれは確か民国86年(注:1997年)のある日のことです。私は主人と宜蘭の文化中心で私たち自身の水彩画や
油絵などを出展した「二月絵会」美術展を参観している時に、突然後ろの方から私の名前を呼ぶ人がいた。
「曹金花さんではありませんか」五十歳前後の女性である。見覚えのない人であるが、いったい何であろうかと
思いながらも「そうです」と返事をすると、彼女は喜んで、実は今でも両親は貴女に対して非常に感謝をして
おります。「その日は暴風で雷も鳴り響く夜で母は陣痛が始まったので助産婦を迎えなければならない。
その時貴女を思い出したが交通手段が自転車しかない。しかも道らしい道もなく畦道のような石ころだらけの道、
果たして来ていただけるか心配して迎えに行ったところ、思いもよらず貴女はすぐ応じてくれ、弟を助けていた
だきました。この事を思い出しては家族で感謝しております。今日ここでお会いできるとは思わなかった」
彼女は私にこの事を覚えているか、と何度も聞いたが、「覚えていますよ」と答えた。この事は私の職務でした
事であるが、陰でこんなにも感謝をしてくれる人がいることを思い、お金では買えない宝物のように思えました。
その夜は雨の激しい夜でした。良い寝心地でいると雨戸を打つ激しい音に目を覚ましたのは午前三時。蒸し暑い
晩で寝る前には空には美しい星が一面にあったのに、この雨は一体何だろうと夢うつつ、再び眠りに就こうかとし
た時、戸がガタガタとする音が耳に入って来た。以前にもこのような事があった。あの日も大雨の晩で戸をたたく
音が聞こえた。誰かが私を呼びに来たのだろうと思って声をかけたが返事がない。しかし戸を叩く音は前にも増し
て強くなるばかりであった。激しい雨の為にお互いに交わしている声が耳に入らないのであろうか。もしくは走っ
て来たために息を切らしてしまい発声することができないで本能的な知恵で戸を叩いているのだろうと、勝手に想
像しながら神経を指先に集中させて思いきって戸をあけたが、不思議な事に人影はなく只黒い影が廊下の方に消え
て行った。私はあまりにも緊張したのか危うく倒れそうになってしまった。しばらくして意識が回復したので早く
戸を閉めてしまった。以前にもこのような騒ぎがあったので早く床に入った方が安全と思った。すると又しても
戸を叩く音がした。今度は紛れもなく人の叫び声であった。
初めは開けようか開けまいか思案した。この大雨で全身びしょ濡れを免れることは不可能である。しかも頭上
では雷が恐ろしく鳴っている。家の中にいても身が縮む思いでいるのに、ましてや外に出ればその恐ろしさ如何
にして産家に辿り着くかと思うだけでも全身戦さを覚える。ちょうどその時戸を叩く音は先にも増して大きく聞
こえて人の声と認めた時は思い切って戸を開けた。蓑を着た緊張した人が「家内がお産するので迎えに来た」と
言う。先ほども呼びに来たが返事がないので留守だろうと思って離れたが、いやいけない、もう一度確かめるた
めに再び来たとのことだった。本当に戻ってきて良かったと喜んでいた。そして彼は一件の蓑をくれ、私は準備
の整っている助産箱を持って石ころの道を自転車に揺られながら走る。闇の中で光る閃光は恐ろしく鼓膜が破れ
んばかりの雷が轟き、樹木が揺らぐ音も空虚に反響し不気味な音を立てていた。
雨と焦りで自転車が思うように運転できない。産婦の陣痛が激しい時には産婦に代わり自分がその痛みに代わって
あげられたらと、身を削られる様な焦燥を感じるのであった。痛みに呻き続ける産婦の声に浸りながら夜を徹した経
験も私には尊い経験である。私の到着を産婦はどんなに待っているかと思うと、進まぬ自転車が憎らしく思えてくる。
まっ暗闇の中、小さい懐中電灯を頼りに自転車を走らせる石ころだらけの道から畦道に入る。小さな畦道に入ったの
で彼は緊張したのか、早く帰りたいと焦ったのか、暗い夜道で自転車が転倒しないかと心配していたのが、案の定自
転車は倒れてしまった。今まで乾いていた田んぼがこの雨で泥の海になっていた。転んだ私は目に涙しても勇ましく
立ち上がり、助産箱を彼に渡して自転車の跡を着いて行ったが、あまり道が滑るので何回も転んだ。唇を噛みしめて
早く産家に着けばと思うけど、この暗闇はとても足が言うことを聞かない。いつでも見る産婦の蒼白な顔、ベッドに
横たわり沈黙している。
立っては寝ころび、寝ころんでは立ち上がり、時には唇をかみしめて陣痛に耐える。これを想像すると私の今の苦
しさを忘れ早く産家へと急ぐ心で一杯であった。ア、とうとう着いた。
産婦は私が想像した通りの苦しい状態でしたが、私を見てからは安心したのか、今までの苦しみも消え微笑んで私を
迎えた。
まるで暗闇から明かりを見つけた如くであった。私も途中のことも忘れて雨具を脱いだが服も濡れていた。検査の
結果は骨盤位である事を発見した。この状態では胎児や産婦にはおもわしくない。先ず家の人にこの状態を言って
聞かせた。但し産婦には知らせなかった。今までの経験から私は必ず無事に分娩させる事ができると信じて、出来
る限りつくす決心であった。この時産婦は一陣の陣痛に私の手を握り、私は骨盤位分娩の方法を間違いなく行い五
六回の陣痛で分娩出来た。但し胎児はチアノーゼ状態であった。産家は嬰児が死亡したと思い落胆したが私の応急
処置で母子ともに助かり、しかも男の子であった。彼らの喜んでいる姿を盛ると、小さい命を救ったことは私の職
務であるが。私の心の中は何にも例えようのない喜びであった。
家に帰って手が痛いので調べて診れば、手のひらは傷だらけ、思い起こせば産家に行く途中、幾度となく転んだ
傷であった。しかし行く途中の幾多の苦労も小さい生命を救った事を思うと。この傷が何故か有り難く思えるので
あった。何時も思ってしまう助産で夜中に出かける怖さ、しかしいろいろ困難を乗り越えて助産の仕事へ就いたか
と言えば、産婦の身を案じ、純粋に人に尽くす真心であったから難産などに打ち勝って無事に嬰児を蘇生させる事
が出来たと信じます。思えば誠に尊い思い出です。(1999年9月9日)