【はるかなり台湾】「幼き日々の思い出」

【はるかなり台湾】「幼き日々の思い出」

「はるかなり台湾」より転載
                
                                     

先月の台日会の月例会の時に、徐医師の奥さんが「幼き日々の思い出」を語ってくれました。奥さんは「今年で満84歳
になり、こんなに長生きできるとは夢にも思ったことがなく、自分でもびっくりしています。」と冒頭に述べ、そのあ
と特に印象に残っている昭和10年(1935年)の台北博覧会のことを下記のように語ってくれました。

「博覧会で家族とともに初めて台北の旅館に泊まりました。父母に連れられて入った会場で、一番先に目についたのが、
すごく大きな水槽に海女さんが中で泳いでいるのを見ました。世の中こんな人もいる、なんてすばらしいことかと見と
れていたのが、第一印象でした。
世の中にこんな人もいるなんて—–。私もこうなりたいと思ったことでした。廊下の左側には「阿片」を吸っている
おじいさんが寝ていました。そして嬉しかったのは旅館から出された食事でした。それは見たこともない三重のきれい
なお膳に入ったごちそうでした。この時の嬉しかったこと——。博覧会の記憶はここまで——–。」

この話を聞いていた前会長の林啓三さんも「ぼくも見に行ったよ。」と言っていました。そのことは林さんが2012年7月
に出した『いちじく』という随筆集の中にも下記のように記されています。

当時の中華民国政府は博覧会に福建省政府主席の陳儀を団長とする視察団を派遣させた。帰国後その報告書の中で、
日本の台湾統治に最高級の賛辞をおしみなく呈しており、曰く「他山の石」「日本人に出来て中国人になぜできないのか」
「わずか40年の経営で台湾と中国の格差は驚くばかり」「日本統治下となった台湾人は本当に幸せである」(1993年伊藤潔
著『台湾』より抜粋)
私は昭和10年台湾始政40周年博覧会が開催された時にちょうど公学校(今の国小にあたる)5年生だった。この時親の許し
を得て、公学校の北部修学旅行に参加することになった。この旅行で千歳一隅の「台湾博覧会」を参観できたことは私の無
情の幸せだった。何しろ先生に連れられて急ぎ足で参観したため走馬灯の如き一場の夢となった。強いて印象に残ったのは
台北駅前に設置された歓迎門と陸橋の燦々たる夜景ぐらいでした。‘
また日本の甲州葡萄を試食したおいしさは格別で、一箱をお土産として買い、両親に差し上げたところ大変喜ばれたことを
覚えている。

また前述の奥さんは、台湾博覧会の後あと公学校に入学し、三年生の時ある日本人の子供から「お前、台湾人だろう」と
言われたことに大変ショックを受け
「将来は必ず貴女に勝って見せる」と誓ったそうです。皆さんの幼い時の思い出はいかがでしたでしょうか。それぞれの
エピソードがおありでしょう。簡単ながら今日はこれで失礼しますと言って、彼女はスピーチを締めくくったのでした。

(備考:始政四十年記念博覧会について)
総督府が台湾統治40年の政治実績を広く宣伝するため、百万円を費やして挙行した大型博覧会。台湾総督府が全面的に
後援し、総督の中川建蔵が博覧会総裁に、 政務長官の平塚広義が博覧会会長に就任した。昭和10年(1935)10月10日から
11月28日まで、展覧の期間は50日だった。会場には台北市公会堂 (現在の中山堂)、台北市公園(現在の二二八記念公園)、
大稲?分場、草山温泉地(現在の陽明山温泉)等があてられた。陳列会場の施設には産業館、林業館、交通土木館、南方
館等の直営館と満洲館、日本製鉄館、三井館、東京館、専売館等の特設館があった。戦後の初代行政長官になった陳儀も
参観に訪れており、大変高い評価を与えていた。
なお「始政四十年記念博覧会」に関しては以下サイトが充実しています。
台灣玉山之友「始政四十周年紀念臺灣博覽會畫帖」
http://tw01.org/group/Taiwaner/forum/topics/1970702:Topic:260106


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