【はるかなり台湾】「師恩永垂」

【はるかなり台湾】「師恩永垂」

以前、新社にある山岡先生の記念碑について記しましたが、日本統治時代下にあって殉職された先生方は芝山巌の
六氏先生に始まって意外といるのではないかと思っていた所、台中の隣の彰化県にも浅井先生という方が殉職されて
いました。それで、知人でもある台湾教育史遺構調査をしている玉川大学の教育博物館元学芸員の白柳弘幸先生が
浅井先生のことを調べたレポートがあると言うので送っていただきました。
今日はそのレポートに基づいて記してみたいと思います。

彰化県二水郷の二水国民小学(旧台中州員林郷旧二水尋常小学校)校庭の一角に「師恩永垂」と刻まれた25メ─トルの
高さの記念碑があります。二水国民小学の石碑に「師恩永垂」と刻まれるまでには、いくつかの変遷がありました。
まず、建てられた当初は、この記念碑には「殉職浅井先生之碑」と刻まれていたのです。浅井先生とは男性教師でなく、
二水尋常小学校訓導であった浅井初子先生のことなんです。先生は幼少の時に家族と渡台し、二水尋常小学校、台中高女
補習科を修了し、1929年(昭和4年)4月から母校の教員となりました。その後、熊本県出身の鉄道員、浅井安喜氏と結婚。
1940年(昭和15年)8月15日の小学校の遠足の時、一人の受け持ち児童が用水路に落ちてしまったのです。落ちた子供を
救うために先生は着衣のまま飛び込み、ともに流れに呑み込まれてしまいました。先生は4児の母、享年31歳でした。
この事故は翌々日の台湾日日新報で「教児救おうとし、女教員も溺死、郊外遠足中に椿事」と報道されたのです。

3年後の1943年(昭和18年)3月21日、学校関係者や二水地方有志が「殉職浅井先生之碑」を建立し除幕式が行われました。
「殉職浅井先生之碑」が作られた時、「浅井先生胸像」も作られ、石碑と向かい合うように置かれたのです。当時、
二水には台湾人子弟の通学する二水公学校と、日本人子弟の通学する二水尋常小学校があり、両校は隣り合って建
てられていました。戦後、2校は統合され、二水国民小学となり、石碑等はそのまま受け継がれました。その後
「浅井先生胸像」は撤去され、石碑の文字は「精忠報国」へ、さらに「毋忘在菖」(忘れることなかれの意)と
改められました。その後1970年代の新校舎改築時、石碑は放置され、1998年(平成10年)の時、道徳教育に熱心な
夏張啓校長が、元々の石碑に「師恩永垂」の言葉を碑として再建したのです。楷書体の美しい文字を揮毫したのは
同校訓導主任(当時)の邱慧蘭先生。「師恩永垂」の言葉には「殉職浅井先生之碑」の意味も含め、もっと強く
師弟の絆を大切にしたいとする思いを込めたのでした。日本統治下という状況下で日本人教員が日本人の子供を
助けようとして亡くなったのですが、こうしたことは台湾人も日本人もないと言います。新調された碑とともに
浅井先生のことも忘れられることはないでしょう。

「記念碑」の詳しい経緯は、二水国民小学元教員の陳文卿氏によりました。当校の調査や陳氏への連絡をして
下さったのは、戦前の熊本県球磨農業学校を卒業された彰化県田尾郷在住の郷土史研究者である黄天爵氏、
感謝申し上げます。(平成21年12月1日訪問、彰化県二水郷文化村光文路119号)

この碑に興味のある方は一緒に行ってみませんか。新幹線台中駅から在来線の鈍行電車に乗り換えて南下すると
集集線との起点駅になっている二水駅があります。二水国民小学までは駅から歩いて10分程度だそうですよ。
駅周辺にはサイクリングロードもあり、田園の中を散策するのも台湾の秋を楽しむ方法ですよ。


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