【台湾紀行】関門古道と「水の古道」

【台湾紀行】関門古道と「水の古道」
                    西 豊穣

<台湾最後の秘境>
日本より人口密度の高い台湾で今更秘境と呼ばれる場所が存在す
るとは、台湾を訪れたことのある人でもなかなか想像が難しいか
もしれませんが、台湾の山に一旦分け入ればいまだに秘境だらけ
であることにびっくりします。これは今まで紹介してきた台湾古
道の記事の中で何度も触れてきました。その秘境中の秘境と謂わ
れているのが今回紹介する関門古道です。

この古道の完全な踏査記録である鄭安[目希]氏に依る『台湾最後
秘境−関門古道全探勘曁歴史沿革』が出版されたのが2000年、そ
の後、関門古道に対しそのようなイメージが定着したものと思わ
れます。戦後も台湾人登山家の間では知られていましたが、一般
のハイカーの耳目に「関門古道」が届き出したのは最近のことで
あり、これは私自身も例外ではありません。

南北340キロに渡る台湾の中央山脈は、登山者の間では便宜上南
北各々三段に分けられており、例えば同山脈の南北端は、南一段、
北一段と呼ばれ、南三段と北三段が接する部分が大凡の同山脈の
中央部ということになります。その中で南三段が最も峻烈を極め、
中央山脈最高峰の秀姑巒山(しゅうこらんさん・標高3,825メー
トル)を擁し、玉山山脈と向き合います。大凡南三段の南端を横
断するのが以前紹介した八通関古道、北端を横断するのが今回紹
介する関門古道で、文字通り台湾中央を横断する古道です。

<最後の「開山撫番」道>
関門古道の歴史は、他の台湾の主要古道と同じく、清朝の同治末
から光緒初め(光緒元年=明治8年、1875年)に欽差大臣
沈葆[木貞]の建議に依り開始された「開山撫番」道開鑿の延長線
上にあるものです。初代台湾省巡撫劉銘伝指揮下で開鑿、開山撫
番道が開鑿されたのは同人の任官時までで、関門古道は最後の開
山撫番道です。

当時集集−水尾道と呼ばれた最後の清朝開山撫番道は、西側は現
在の南投県水里郷民和村、東側は花蓮県瑞穗郷富源村を起点とす
る総延長105キロ、集集は現在も同じ地名、水尾とは現在の瑞穂
で日本時代に改名されたものです。光緒13年(1887年、明治20年)
1月に東西両側から開鑿開始、3月には完工しますが、四ヶ月後の
7月には水沙連社(サオ族)・卓社(ブヌン族)の原住民に守備
兵が襲撃され廃棄されます。

<「関門」の由来>
台湾が下関条約を経て日本に割譲された翌年(1896年、明治28年)、
まず陸軍步兵中尉長野義虎が関門古道を西から東に抜け、日本人
で初めて中央山脈横断に成功しました。その後、伊能嘉矩(いの
う・かのり)、森丑之助(もり・うしのすけ)、野呂寧(のろ・
やすし)、鹿野忠雄(かのう・ただお)等台湾の人類、民族、地
理、博物の分野で多大な功績を残した探検者(註1)が同古道を踏
査し、記録を残します。これらの記録は、戦後台湾人に依る中央
山脈横断の際の唯一の手掛かりとして随分最近まで参考にされて
きました。特に、関門の名の由来となる清軍開鑿時に古道最高点
に建てられたという木製の華表(かひょう=門柱)の在り処を特
定するのに使われました。少なくとも長野、森、野呂は実物を目
撃しており、今現在は正確な位置が特定されています。現在の地
形図上は関門山(標高2,974メートル)という表記になっています
が、日本時代の地形図では関門という表記になっています。関門
を堺に古道を東西段に便宜上分けています。

<濁水渓とブヌン族>
日月潭の南西に位置する水里は各々南、東から流れ込んでくる陳
有蘭渓と濁水渓の合流地点に広がる町です。ざっと言うと、陳有
蘭渓、濁水渓のそれぞれの源頭は玉山、合歓山群峰です。

この町から陳有蘭渓を遡る自動車道が省道(註2)21号線、他方
濁水渓を遡るのが16号線、やがて眼前上空に立ち現われるのが、
前者が玉山連峰、後者が卓社大山(標高3,369メートル)連峰です。
因みに水里市街地内で交わる16号線と21号線の分岐点には今でも
日本時代に建てられた「新高登山口」の道標が残されています。

16号線が濁水渓北岸を遡り始めて最初に出会う集落が、水里郷民
和村で、関門古道のオリジナルの西側起点になります。日本時代
は抜社埔と呼ばれていた漢人が古くから入りこんでいた土地です。
ここまでが水里郷で、その東隣の集落、地利村、並びに濁水渓南
岸以南は信義郷に抱合されます。

省道16号線沿い、信義郷内の濁水渓の両岸には現在四つのブヌン
族の集落があります。南岸側に人和村(日本時代は人倫社、或い
はランルン社)と双龍村(同イシガン社、或いはデトウン社)、
北岸側に潭南村(同ワラビ社)、地利村(同タマロワン社)です。
いずれも日本時代に台湾総督府に依り移遷させられたもので、村
に依り構成は異なりますが、ブヌン五族(註3)が混在して居住
しています。

16号線の終点以降は、台湾最長のスーパー林道、丹大林道(註4)
に代わります。そこは濁水渓と丹大渓の合流地点(註5)で、丹
大吊橋が掛かります。そこから中央山脈脊梁に至る上流域がブヌ
ン族の先祖伝来の地になります。関門古道西段は、大凡、丹大渓
沿いに中央山脈脊梁に向かい東上し関門に至り、そこから花蓮県
側へ降りていくわけですが、西段側は登山道としては最早使えな
いぐらいに荒廃(註6)しています。その代わりに、台湾最高所
の湖沼である七彩湖、台湾百岳の殿(しんがり)の六順山(標高
2,999メートル)、関門、更に、鹿野忠雄が『山と雲と蕃人と』
で最も多くのページを割いている中央山脈南三段の核心部に至る
登山道として利用されているのは、専ら丹大林道です。但し、近
年の台風の影響で、現代工法を駆使したはずの丹大吊橋そのもの
が断裂、林道の崩壊も激しく、現時点では丹大林道への一般の人
の侵入は禁止されています。

以上のように、古道そのものは最早一般のハイカーが歩き通せる
ルートではありませんし、私自身もまだ足を踏み入れたことはあ
りません。但し、古道の東西両起点は静かな散策が楽しめる行楽
地が控えています。古道の紹介はこの辺で留め、以降の記事は台
湾と日本時代との関わり合いを古道東西両起点を透して紹介して
いきます。

<ブヌン族集落遺構「バクラス」と古道>
実際の関門古道西側起点は、日本時代の抜社埔、現在は水里郷民
和村とされていますが、現在の台湾ではお隣の地利村を古道西側
起点として紹介するケースが多いです。理由は、関門古道が日本
時代はブヌン族管制の為の警備道として整備し直されたこと、そ
の過程で前述の渓谷沿いに散在していたブヌン族集落が下流域に
移遷させられたこと、地利村はその移遷先の一つであること、村
内に実際古道が残存していること等が挙げられます。

これらの村々は1999年の921地震で壊滅的な打撃を被った場所です
が、今はその傷跡を探すのが難しいぐらいに恢復しており、ブヌ
ン族の文化が色濃く残る場所として各々の村が行楽客誘致に工夫
を凝らしています。全くの案内無しで現地に出掛けても要領を得
ませんので、インターネットのサイトを通じ予め予約しツアーを
組んで貰い探訪することをお薦めします。

地利村を訪ねるとその対岸の双龍村、更にそれらの集落より濁水
渓上流域へ、最後は、ブヌン五族の一つ、カ社群の旧社であるバ
クラス社跡へ案内されます。最も古道西側起点に近いブヌン族集
落遺構であること、又、車でアクセスできる為、関門古道上で最
もよく知られたブヌン族旧社です。「バクラス」とはブヌン語で
川岸の平坦な地という意味だそうです。文字通り、濁水渓が丹大
渓と交わり大きく西側に湾曲した先の広大な川原の袂に集落が形
成されていたのですが、今は、日本時代に駐在所並びに教育所が
置かれていた場所が民宿として整備されています。もうブヌン族
特有の石板屋は殆ど残存していませんが、この広場を支える高さ
二メートル程の精緻に積み上げられた石垣が当時の名残りです。

地利村からこの旧社までの車両が通行出来るようにした道路の内、
バクラス社近くは古道を利用したものですが、大部分はそうでは
ありません。ガイドさんに、長い、短いは関係ないので正真正銘
の関門古道を歩けないだろうかとお願いしたら、二か所に案内し
てくれました。古道は地利村上部から背後の山沿いに次第に高度
を上げ、濁水渓と丹大渓の合流地点上部の標高1,000メートル程度
の山塊を超えてバクラス社に降りていきます。この嶺越えの部分
には民宿があり、その民宿の裏山に古道が上がってきている様子
をまず見せて貰いました。地利村からそこまでの約5キロの古道
を整備しようという計画があるそうです。もう一箇所は、古道が
急斜面をバクラス社に降りていく部分の一部で、地元の有志の方
が手を入れ歩けるようになっています。その整備された一番上部
に完全な石板屋群が残存しており簡便に観察出来るように整備さ
れています。この段の古道、石板屋とも一般の行楽客に供されて
いるというより、地元の子供たちへ「尋根」(ルーツを尋ねる)
の場を提供する為に整備したと話してくれました。

<地利村・双龍村と日本時代水路>
地利村は人口が1,000人強程度の小さな集落ですが、村内の各所
に頭に雄鶏の透かしを模った金属製の標識が立てられ、村内の
「名所」を指し示しています。地利村の旧社名「タマロワン」
とは雄鶏のこと、この地の故事をベースにしています。その標
識の中に「日据時代隧道」というのがあります。上水道と灌漑
用を兼ねた水路で、目分量で50メートル強ぐらいの長さのトン
ネルが村の外れに残っています。村の西側にある濁水渓に流れ
込む小さな川から水を引き込んでくるのに、その水路がちょっ
とした山に遮られるのでトンネルを掘ったものです。トンネル
の出入口は、トンネルの名が刻まれていたプレートが既に剥が
されているのは残念ですが、今でもコンクリート製の当時の精
緻なデザインがそのままです。大きな土管が通してあるのだろ
うと単純に想像していたのですが、それは出入口付近だけで、
残りは開鑿したままの岩盤が何の補強工事も施されず剥き出し
になっており、トンネルの高さはまちまち、高い場所は大人の
倍くらいあり、まるで鍾乳洞を思わせるような内部です。ガイ
ドさんの自慢は、「921地震の時ですらビクともしなかった。」
というものでした。

双龍村は濁水渓を隔てて地利村の対岸の山の斜面に形成されて
いる集落です。双龍村の旧称、「イシガン」とは、ブヌン語の
発音を日本人が「石巌」と聞いたからだそうですが、ブヌン族
自身の自称は、ディバウンで、日本時代はデトウンと表記され
た地形図もあります。

この双龍村の観光の目玉は双龍滝で、ここに最初に案内されま
す。双龍村の東隣からこの滝に向かってモダンな赤塗りの吊橋
が掛かっています。この吊橋はもともとは人と水を、滝が削り
出した谷越しに運ぶ役割を担わせようとしていたようですが、
今は安全上の理由から、水だけを滝から村へ運んでいます。つ
まりこの吊橋は取水管を支えているのです。ガイドさんの話で
は、日本時代にも同じ方式で取配水していたそうです。

この吊橋を渡ってきた水は、水路の高度を段階的に落としなが
ら最後は集落に配水されますが、日本時代に建造した水路が現
在でも使用されており、その水路沿いに歩けるようになってい
ます。双龍村が言う「日据時代水圳歩道」(圳=人工
の水路)という観光資源で、双龍滝の次に案内されるはずです。
水路は二段構造になっており、滝からの水を一旦平坦な水路で
運び込んで、途中で相当な落差を設けて直角にその水を落とし、
もう一回平坦な水路で集落に引き込むのですが、この落差、つ
まり上下段の水路を結ぶ場所に設けられた踊り場を持つコンク
リート製の精緻な階段も現役です。

地利村と双龍村の水路、このような小規模な水利施設は当時日
本人により台湾各地に夥しく作られたはずですが、こうしてこ
れらブヌン族の村ではわざわざ現代の、それも殆どが台湾人行
楽客に紹介するところが興味深いです。私はこれまで台湾各地
で原住民の方が同じことを繰り返すのを聞いてきました―台湾
人の作ったものはすぐ壊れるが(と無残に崩壊した谷間のコン
クリート製の水利施設を指さしながら)、日本人の作ったもの
は今でもこうして残っていると。

<富源森林遊楽区と古道>
関門古道東側起点である、現在の花蓮県瑞穂郷富源村は、日本
時代は抜仔(ばつし)庄と呼ばれていた場所です。何処が関門
古道の実際の入口であったかについては、長年の踏査・研究の
末に、この村の最大のアトラクションである、富源国家森林遊
楽区の入口付近だっただろうということになっています。ここ
には超豪華宿泊施設がそのままテーマ・パークを形成しており、
別名、富源蝴蝶谷温泉渡暇村と呼ばれています。何故ここにこ
のような大掛かりな公園を開設したかはよく判りませんが、台
湾で最大の樟(クスノキ)の森林遊楽区という説明があります。
ここの公園の係員に、関門古道は何処?と聞いてみても全然知
らないという答えが返ってくるか、聞き齧っている人の場合で
も、遠くの方を指さされるだけで要領を得ません。入口を入っ
てからすぐに右側の山中に入るのが凡そ正しい方向と思われま
す。公園内には立派な遊歩道が設えてあり、公園の北側を廻る
遊歩道が古道そのもので無ければ、恐らく古道に一番近い位置
になるのではないかと勝手に想像しながら歩きました。実際、
この入口から公園の裏に控える抜仔山(標高1,775メートル)
斜面の古道の痕跡は斜面の開発の為に消えてしまっていると言
われ、古道東段を辿りたい場合は、この公園より遥か北側の林
道を辿り抜仔山自体を迂回して古道に出会う方法を取るようで
す。一般の観光という観点からは、西側起点では、あくまで近
年になってからですが、「関門古道」という単語だけが観光
ツールとして一人歩きしている状態にある一方で、東側起点で
は行楽客の間で関門古道が話題になることはなさそうです。

さて、現在は客家人の多いこの村、前述のテーマ・パーク以外
は何の特徴もないのかと思い込んでいたのですが、意外なもの
が幾つか残っているのを発見しました。台湾鉄路(=鉄道)の
富源駅構内に残されていた日本時代に建てられた旧倉庫は改装
され「抜仔庄常民文化館」として村民の便宜に供されています。
又、村の真ん中を横切るように水路が走っているのですが、富
源村の南側を流れる富源渓(日本時代は媽蘭鉤渓)から引き込
んだ灌漑用水路で、清朝光緒年間に建設が始まり、日本時代に
整備された興泉圳です。もともとは、抜仔庄圳、昭和
元年(1926年)には白川圳、その後、興泉[圳に変わっ
た等、この水路の沿革を詳しく説明した碑が、水路沿いを公園
仕立てにした「興泉圳緑隧道」の中に置かれています。更
に、興泉圳沿いに村の北側に行くと、水路と街全体を見降
ろすように「白川神社」の遺構が残存しているのには驚かされ
ました。

<「水の古道」>
台湾に於ける水利事業施設の整備は、清の時代にも営々と行わ
れていました。日本時代には、それらを再整備し、近代工法を
駆使して拡張していきました。それらの施設はいまだに現役で
活躍しているものが台湾各地で見られます。その数と延長は膨
大です。驚くべきは、それらを設計・施工した先人達の知恵と
苦労だけではありません。それらの水利施設を今でも滔々と流
れ続ける水の清冽なことです。今回紹介した三本の水路も例外
ではありません。八田與一と嘉南大圳はいまや台湾、日本の双
方であまねく知られるようになりました。実は、当時台湾には
多くの八田與一がいました。彼らの「作品」はいまだに現役と
して台湾の大地を潤し続けています。

これらの水利事業施設を古蹟とみなすと、枚挙に暇がありませ
ん。通常、建築物のように話題にならないのは、単に一般の
人々の目に触れる機会が少ないからに過ぎません。今は、文字
通り縁の下の力持ちに漸く陽が当たり出し、台湾各地で紹介が
進んでいます。台湾では「古圳道」と呼ぶ人もあり、探訪
のツアーも組まれ出しました。筆者自身は勝手に「水の古道」
と呼んでいます。今回は、従来の古道と同時に、そんな一端も
併せて紹介しました。(終わり)

註1「探検者」:長野義虎は丁度10日間を要して踏破、中央山
脈横断道路建設の調査(大正2年、1913年)の為に南投県側か
ら入った野呂寧・森丑之助一行は、7日間を要している。

註2「省道」:本来は「国道」と称すべきものだが、行政院交
通部は未だに変更していないので現在の呼称に従った。現在
の台湾で「国道」とは高速公路(道路)に対する呼称である。

註3「丹大林道」:全長約70キロ程度の紹介が多いが、100キ
ロを超える距離が紹介されることもある。全長が定かでない
所が、この林道の現在でも台湾人に余り知られていない因縁
曰く付きの性格の一端を物語る。振昌製材(木業とも)公司
の孫海が、1958年、林務局巒大山林場管轄下の丹大林區の伐
採権を得て建設、総勢3,000人以上(その内三分の一は退役
軍人)を投入、四か月で完成、従って「孫海林道」とも呼ば
れた。孫海が何故そのような広大な林区(筆者の手元にある
数字は10,500ヘクタール)の伐採権を独占出来たのかは、当
時の蒋家との関係が取り沙汰されてきた。合法、違法の伐採・
搬出を繰り返し、中央山脈最奥の原生林地帯はすっかり様変
わりしてしまい、洪水が多発、下流域のブヌン族の集落に甚
大な被害を齎してきた。伐採跡地は高冷野菜(台湾では主に
キャベツ)の畑地に転換、更に土壌流失、洪水に拍車が掛か
る。野菜栽培は、暴力団も絡んだ違法な土地取得、野生動物
の乱獲も生んだ。最近の四駆ブームで大量の車両が林道を通
じ侵入、車両転落事故の多発に加え、渓谷沿いの河川敷を荒
らす結果になり、生態系は更に破壊が進んでいる。

註4「ブヌン五族」:卓社(トド)群、カ社(バクア)群、丹
社(バタン)群、巒社(ブヌアス)群、郡社(ブクン)群。
このうち、郡社群が最大の人口を擁し、現在の居住区は高雄
県と台東県に集中している。

註5「合流地点」:ここから濁水渓は合歓山山塊に向けて北
に遡上、途中で中央山脈に向けて東に遡上するカ社渓に分岐。
他方、丹大渓は中央山脈に向けて東に遡上、途中で南に遡上
する郡大渓に分岐、郡大渓は上流で更に巒大渓に分岐する。
日本時代、ブヌン族の群名に依って河川に命名された。これ
らの渓谷沿いには現在の台湾の市販の地図上にも夥しいブヌ
ン族の旧社名が表記されている。特に、郡大渓沿いの旧社は
鹿野忠雄の『山と雲と蕃人と』に頻繁に登場する。当時、謂
わば、関門古道と八通関古道を結ぶ役割を果たしていた「中
の線」警備道が郡大渓沿いに開削されていたからだ。これら
ブヌン族の集落は、昭和2年(1927年)の郡大蕃勧誘事件(大
正 4 年、1915 年のダーフン事件の首謀者と目されていたラ
ホアレが反台湾総督府勢力を秘かに郡大社に求めた事件)以
降、台湾総督府により続々と濁水渓下流に強制移遷が進めら
れる。ダーフン事件と郡大蕃勧誘事件の時間差に注目。如何
に長期間に渡りブヌン族が台湾総督府に対し抵抗し続けたか
が判る。

註6「荒廃」:「台湾最後秘境」の鄭氏の踏査行(最後は
1998年)以前・以降とも古道西段山行記録で公開されている
ものは筆者が調べた限りでは皆無に近い。

西豊穣 ブログ「台湾古道~台湾の原風景を求めて」
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