た。詳しくは公式サイトの「劇場情報」をご覧いただきたいが、この映画の日本公開に合わせ、1
月23日、月刊「Voice」2月号の巻頭に掲載された李登輝元総統と映画「KANO」プロデューサー
の魏徳聖氏との対談「KANO精神は台湾の誇り」の全文も公開された。
本誌でもこの対談の全文をご紹介したい。ただし、14ページに及ぶ長い対談なので2回に分けて
ご紹介したい。
先にこの対談のことを本誌で紹介したときに「お二人の気持ちが通じ合っていることがよく伝
わってくるからなのだろうか、なんとも言えない清々しさを覚える対談だ」と記したが、再読して
もその清々しい読後感は変わらない。お二人とも台湾が大好きだという気持ちが強く伝わってくる
し、目指す方向もよく似ているからだろう。
ちなみに、日本語を話せない魏徳聖氏の通訳をつとめたのは張文芳氏。台湾関係者には馴染み深
い友愛グループの代表。掲載写真を提供している一人は片倉佳史(かたくら・よしふみ)氏。これ
また、台湾関係者の間では「台湾の達人」の異名をとる片倉氏の名前を知らなければ「モグリ」と
言われてしまうほど。
神は細部に宿るというが、「Voice」編集部の力の入れようがこんなところからも分かる、本当
に深い読後感を味わうことができる対談だ。下記に、対談全文や写真を掲載している「衆知」のU
RLもご紹介したい。
◆ KANO精神は台湾の誇り <特別対談> 李登輝vs魏徳聖[1月23日公開「衆知」] http://shuchi.php.co.jp/article/2174
◆ 映画「KANO」上映館
http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=296
KANO精神は台湾の誇り <特別対談> 李登輝vs魏徳聖 (下)
【月刊「Voice」2月号】
日本統治時代の台湾から甲子園をめさず球児たちの不屈の青春を描いた映画『KANO』が日本
で公開される。この機会に、台湾を代表する映画監督であり、『KANO』の製作総指揮を務めた
魏徳聖氏と李登輝元総統の対談が実現。日本人が忘れてしまった日台の歴史、そして絆がいま鮮や
かに甦る!
魏徳聖(ウェイ・ダーション/Wei Te-Sheng)映画監督
1969年、台湾台南市生まれ。2008年に初の監督作『海角七号 君想う、国境の南』を発表。台湾で
歴代2位となる興業成績を収め、注目を集める。2011年、『セデック・バレ』を発表。2014年に台
湾で公開された『KANO』では製作総指揮を務めた。
李登輝(リー・テンフェ/Lee Teng-hui)元台湾総統
1923年、台湾・淡水郡生まれ。台北市長、台湾省政府主席、台湾副総統などを経て、88年、総統に
就任。90年の総統選挙、96年の台湾初の総統直接選挙で選出され、総統を12年務める。著書に、
『新・台湾の主張』(PHP新書)ほか多数。
◇ ◇ ◇
(承前)
◆「私とは何か」という問題
魏 李登輝総統時代(1988〜2000年)、私は10代後半から20代の多感な時期を過ごしました。ご
本人を前にして恐縮ですが、当時の私にはあなたの大きさがわからなかった。政治に関心が少な
かったせいもあるかもしれません。しかし、陳水扁総統時代(2000〜2008年)や馬英九総統(2008
年〜)になって初めて、李元総統が求めた理想がわかる気がしました。人間というのは、ただ頭が
いいだけでは用をなさない。さらにいえば、ブルー(国民党のイメージカラー)を支持するか、グ
リーン(民進党のイメージカラー)を支持するか、そんなことよりも大切なものがある。すなわ
ち、心です。いまの台湾人には同理心(人を思いやる気持ち。共感)が欠けているように思いま
す。
李 生きるうえでいちばん肝心なことは、「私とは何か」という問題です。現在の私の一部を形
づくったのは、紛れもなく戦前の日本の教育です。『KANO』をみたあと、「日本の教育は素晴らし
かったね」と家内と語り合ったほどでした。しかし、台湾を統治していた日本人に対して、不満が
なかったわけではありません。日本人は台湾人のことを少々見くびるところがあった。私自身、何
回もそういうことに遭遇しました。
私の母親は田舎の女性でしたが、ある日、菊本百貨店(台湾に開業した最初の百貨店)に連れて
いってあげたんです。当時、私は旧制台北高等学校の生徒で、その制服を着てね。「台湾人の俺
だって、これぐらいのことはできるんだ」という気持ちからです。
日本統治時代の台湾では、日本語が強制されていましたから、台湾語は厠に隠れて勉強しまし
た。まだ9歳か10歳だったと思います。そのころ、祖父と『論語』の素読をやりました。「先進」
篇に「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(生を知らないで、どうして死を理解できよう
か)」という言葉があるのを知り、子供ながらにイヤな感じがしたことを覚えています。生を肯定
しすぎることは、利己主義や享楽的な人生をめざすことにつながりかねない。他方、日本の武士道
は「武士道とは死ぬこととみつけたり」(『葉隠』)という有名な言葉が示すように、まず死を前
提としたうえで、有意義な生を考える哲学があります。
日本の武士道が説く無私の精神に加え、後年キリスト教に入信することで、私は長年自分を苦し
ませてきた「私とは何か」という問題に、ようやく一つの答えを出すことができた。それは「我是
不是我的我(私は私でない私)」というものです。自分の命はいつなくなっても構わない。台湾の
ために死力を尽くして働く。いかなる栄誉も求めない。こうした気持ちで仕事をしてきました。も
ちろん、これからもその覚悟です。
魏 李元総統の書かれた『台湾の主張』(1996年)を私も読みました。この本に書かれているこ
とには、おおむね同意いたします。しかし、台湾のメディアはその記述の一部分だけを捉えて、批
判している。それは政治的意図によるものにすぎない、と感じました。
李 昨年も、いわゆる中国寄りとされる新聞の虚報によって、ちょっとした騒動が起こりまし
た。日本の敗戦後、台湾大学に編入学した時期に関することで、私が共産党に二度入党し、二度脱
党した、という虚報を流したのです。台湾大学で私は学生運動のリーダーの立場にありました。学
生運動をしていたのは事実ですが、台湾独立運動を展開していたわけではないし、ましてや共産党
に入党したことはない。そもそもマルクスの『資本論』によれば、共産革命は高度に資本主義が発
達した国で起こることになっている。しかし、当時の中国はそんな状況には程遠く、革命の担い手
となるような労働者階級も育っていない。中国共産党がマルクス主義を謳うのは、古代の専制政治
を行なうための手段にすぎないと当時、気付きました。そんな恐ろしい党に二度も入って、一度た
りとも無事に出てこられるはずがないでしょう(笑)。
魏 そうですね(笑)。
◆立法院で特別上映される
李 2014年3月、台湾で東アジアを揺るがす大事件が起きました。「太陽花学運(ヒマワリ学生
運動)」です。学生たちが占拠していた立法院(日本の国会議事堂に相当)で、『KANO』が特別上
映されたそうですね。学生たちにどのようなメッセージを送ったのですか。
魏 何か特別に言葉を伝えたわけではありません。太陽花学運が起きたとき、学生たちによる立
法院の占拠はいつまで続くのか、そもそもなぜこの運動が起きたのか、社会は理解できていないと
感じました。私自身、学生たちにいうべき言葉が見つからなかった。私は映画人です。だから、自
分の映画をみてもらうのがいいと思いました。『KANO』をみてもらうことで、球児たちの不屈の精
神に学んでほしかった。自分たちの信念を貫け、と。
李 立法院での上映後、期せずして「台湾加油(台湾ガンバレ)」という声が巻き上がったそう
ですね。涙を流した女学生もいたとか。学生たちが占拠していた立法院から退去して数週間後のこ
とです。私は学生たちの希望に応えて、立法院内のレストランで今後の台湾に必要なことについて
話をしました。その一つが先の「新しい時代の台湾人」というコンセプトです。台湾に来た時代や
時期、エスニック・グループにとらわれることなく、民主台湾の建設に進む重要性をあらためて強
調しました。
魏 私の周りには、以前のように、外省人や本省人という区別をしている人は少ないように思い
ます。誰でも「自分は台湾人である」といいます。
李 じつは日本統治時代を経験した高齢の日本語世代は、「自分は台湾人である」という意識を
もつ人がほとんどです。民主化以降の台湾で育った人も同様です。しかし、戦後に中国大陸から
渡ってきた人間のなかには、自分は中国人であるという意識を捨てきれない人がいまだにいるのが
事実です。日本人にとって、自分は日本人であることは自明ですが、台湾はこの認同(アイデン
ティティ)の問題を解決しきれていません。
◆日本への思いは「片思い」
李 『KANO』は、日本人が台湾との絆を考える1つのきっかけを与えるでしょう。私は日本に対
して、とても残念に思っていることがあります。東日本大震災のとき、われわれは交流協会台北事
務所(正式な外交関係がない日本と台湾において、大使館の役割を果たす窓口となる)を通じて、
すぐに救助隊の派遣を申し出ました。民間のNGO組織、中華民国捜救総隊です。1999年の台湾大地
震の際も、倒壊した建物のなかに危険を顧みずに突入し、生存者の救援活動を行なうなど、まさに
台湾精神を代表する義の男たちです。
ところが、同隊の被災地派遣に関して日本側はすぐに承諾しようとしなかった。日本政府の協力
が得られなかったため、同隊は日本のNPOと連携して、自力で被災地に向かうしかありませんでし
た。なぜ、当時の日本政府は台湾からの民間救助隊の即時受け入れを躊躇したのか。日本の報道に
よれば、「台湾は中国の一部」とする中国共産党の意向を気にした、とされます。人道的な援助と
いうものは、政治やイデオロギーによって判断するものではない。台湾人としてこれ以上の屈辱、
悲しみはありません。
魏 李元総統がお感じになった心の痛みは、よく理解できます。私にも似たような経験がありま
す。香港で開かれたある映画祭に招かれたときのことです。会場には中国人や香港人、台湾人、日
本人など、大勢のアジア人がいた。日本の代表者が演壇に立ち、東日本大震災の支援に関する感謝
を述べたのですが、台湾への言葉はありませんでした。私は聞いていて、とても腹が立ちました。
東日本大震災のとき、台湾からの援助は巨額で世界一だったともいわれます。私はその日本人の代
表者に抗議しようとする気持ちを抑えるのに必死でした。
李 2001年、持病の心臓病の治療のために訪日した際のことです。中国の意向を気にした当時の
外相や外務省の反対で、なかなかビザが下りないということがありました。それ以外にも、日本政
府の対応について我慢しなければならないことが多くありました。私の日本びいきは度が過ぎてい
ると、台湾ではしばしば批判の対象になっているのに、これではまったく割に合わない(笑)。
『海角七号』は、戦後約60年ぶりに日本人男性から台湾人女性にラブレターが届くという物語でし
たね。しかし、私たち台湾人から日本へのラブレターはいっこうに届かない時代が長く続いた。私
はよくいうのです。戦後、日本に対する私たちの思いはずっと「片思い」だったと。ただ、安倍政
権が誕生して以来、ようやく日台関係は対等の関係になりつつあると感じており、安倍首相にはこ
れからも期待しています。
◆日本人よ、歴史に学べ
魏 『KANO』を通じて私が日本人に知ってほしいのは、台湾というところは、いろんなエスニッ
ク(民族)が集まってできている社会ということ。そして、かつて多くの日本人がこの台湾に住
み、共に同じ時代を生きていたということです。日本統治時代の台湾には、よいことも、悪いこと
も、たくさんあった。日本人と台湾人の衝突もありました。しかし歴史的にみて、われわれの提携
は、見事に成功したではないですか。いま振り返っても、それは素晴らしいことだったと思いま
す。甲子園をめざした嘉農の球児たちは、その象徴です。
私は、台湾に対する世界からの差別にとても心を痛めています。私はなにも日本に対して、台湾
とグルになってくれという気持ちはありません。台湾はほんとうに小さな国なのです。一方、いま
の日本は台湾からみれば大国です。なのに、なぜ日本は台湾を国として公平に扱ってくれないの
か。日本はどこかの国の属国なんですか。どこかの国に管理でもされているんですか。繰り返しま
すが、われわれ台湾人と日本人は、同じ土地で、同じ時代を生きた経験がある。どうしてそれを日
本人はわかろうとはしてくれないのか。私がいま述べたことは、少し過激すぎたかもしれません
が。
李 現在の台湾は、れっきとした民主国家です。私はその実現のために、全身全霊で取り組んで
きました。もちろんこれからも、台湾のために尽くします。でも、魏さん、これからは、あなたの
ような若い人たちの時代だ。あなたの映画はどれも「台湾人の主体性」をうまく描いていると思い
ます。自分の道を信じて、これからも突き進みなさい。
最後に日本人にいいたいのは、台湾の民主改革は、日本の明治精神、あるいは戦後の改革に学ん
だものである、ということです。『KANO』をみたあと、私は映画館の外で待っていた記者たちにこ
ういいました。「台湾人はこの映画をみるべきだ」。これと同じように、日本人にいいたいと思い
ます。「日本人はこの映画をみるべきだ。そして歴史に学びなさい」と。
(通訳:張文芳)