高座へ向かった台湾少年の戦中戦後 [台湾高座会・台中区会 林 !)永]

一昨日の本誌で、11月13日にかつての台湾少年工たちの集まりである「台湾高座台日
交流協会」(李雪峰会長、略称:台湾高座会)の主催により、台湾・高雄市で開かれる
第21回台湾高座会大会への参加を眼目とする「高座日台交流の会」(佐野た香会長)の
「台湾高座会大会と台湾南部の旅のお誘い」をご紹介しました。

 その高座日台交流の会の10月号会報に台湾高座会台中区会の林!)永氏が当時の思い出
をつづられていますので、ご紹介します。

 なお、台湾少年工たちとの交流は、高座日台交流の会の初代会長で、当時、台湾少年
工の寄宿舎で寝起きをともにしていた野口毅氏が中心になって、戦歿台湾少年工の慰霊
碑を建立した早川金次氏、高座海軍工廠でともに働いた佐野た香さん、父が台湾少年工
の寄宿舎の舎監をつとめていた石川公弘氏などが、なぜ台湾少年工たちが日本に来るよ
うになったのか、日本で何をしていたのか、50年後の平成5年(1993年)から本格的に
始まった野口氏たちとの交流などについて執筆した『台湾少年工と第二の故郷』(展転
社、平成11年刊)があります。こちらもぜひお奨めします。
                                   (編集部)

■『台湾少年工と第二の故郷』
 http://www.tendensha.co.jp/


高座へ向かった台湾少年の戦中戦後

                        台湾高座会・台中区会 林 !)永

 思えばすでに60数年前のことです。第2次大戦中、多くの台湾少年が故郷を離れ勇躍、
神奈川県高座郡大和村へ向かい、高座海軍工廠で戦闘機・雷電の生産に従事しました。
激しい訓練と冬の冷たさで、とても生活を楽しむ余裕はなかった。夜になって床につく
と、父母兄弟や故郷の情景が思い出され、しくしくと涙を流し泣いたものです。それも
1カ月ほど続いたかなあ。日々の暮らしにも慣れ、軍歌を歌いながらの行軍や、仕事を
終わった後の、友人たちとの食事や束の間の語らいが楽しいものとなりました。台湾の
少年たちは、日本を自分の国と信じ、一生懸命働いたのです。

 しかし戦局は日々に激しさを増し、台湾から来た仲間の中にも、犠牲者が出るように
なりました。そして日本は戦いに敗れ、1945年8月15日、遂に終戦の日を迎えたのです。

 戦後、台湾の少年たちは郷里へ帰ることとなり、第二の故郷・日本を離れることにな
りました。当時台湾は無政府状態で、間もなく中国国民党政府が台湾を接収し、とんで
もない政治を行いました。そうした中で、少年たちはいろいろな苦労を体験しました。

 1987年、今から21年前に、私たちは仲間同士が集まり、台湾高座会を結成しました。
それは過ぎ去った時を偲び、共に励まし合って生きていくことを目的としたもので、第
二の故郷・日本の人たちとの交流を深めるものでもありました。私たちはこのような時
間が、いつまでも続くことを願っています。

 今年5月に、私も台湾高座会代表団の一人として日本を訪れ、日本の方々から非常な
熱意で歓迎していただきました。それは心に沁みるもので、これこそが第二の故郷だと
感じました。

 高座会が成立してからすでに20回、台中が振り出しで、毎年各地で盛大で円満な会が
催されてきました。今年は第21回目です。11月13日に高雄で開催されます。日本の皆様、
誘い合わせ、ぜひ大勢でおいで下さい。そろってお互いの健康を祝いましょう。

                【平成20年10月発行「高座日台交流の会会報」15号】



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