ジャーナリストの野嶋剛氏が、外務省で中国課長やアジア局長をつとめた池田維・元日本台湾交流協会台北事務所代表に断交後の日台関係についてインタビューしている。
野嶋氏は朝日新聞台北支局長の経験もあり、台湾のみならず香港や中国の問題にも精通するジャーナリストにして大東文化大学教授の肩書きも有する学者でもある。
池田氏は日本台湾交流協会台北事務所代表のときの歴史的秘話とも言っていいエピソードを明らかにしつつ、台湾は「日本にとって重要なパートナーであり、友人」と述べ、「台湾有事」は「日米にとっての有事」という観点から、政府高官などの人的往来を可能にする「台湾旅行法」のような法律を日本も持つことを提案している。
台湾をよく知る人々にとってはいささか物足りない印象を抱くかもしれないが、日台関係を熟知する2人の問答は興味深く、結論にさほどの新味はないものの、やっぱりそこに落ちつくかという思いになるのではないだろうか。
—————————————————————————————–台湾は重要なパートナーであり、友人─池田維・元外務省アジア局長に聞く【nippon.com:2022年10月15日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c11404/
池田 維(いけだ・ただし)一般財団法人霞山会理事長、立命館大学客員教授。1939年生まれ。東京大学法学部卒業後、外務省に入り、中国課長、アジア局長、官房長、オランダ大使、ブラジル大使などを歴任。2005年から08年まで日本台湾交流協会台北事務所代表を務めた。著書に『激動のアジア外交とともに─外交官の証言』(中央公論新社、2016年)などがある。
── 池田さんは日台断交・日中国交回復を外交官として目撃されました。
ニクソン米大統領の訪中が日本外交に与えた影響は甚大なものでした。訪中予定が公表された1971年7月、私は外務省本省の事務官でしたが、日中国交正常化直前の72年秋から北京の「日中覚書事務所」に出向しましたので、この時期のことは個人的にも非常に思い出深いものです。
ニクソン訪中の発表はとにかく驚天動地でした。これだけ大きな外交的転換を、日本が事前に十分予測できなかった衝撃を、「悪夢」と言った人もいます。実際にワシントンで、国務長官から牛場信彦駐米大使に電話連絡が入ったのは、発表直前のことでした。
日本では、72年7月、田中角栄内閣が発足。その後、日中国交回復、台湾との断交へと進みますが、振り返って、日本政府は急ぎすぎたのではないかという指摘もあります。
確かに「米国に遅れてはならじ」という心理が働いたのかもしれません。実際には、米国が台湾と断交するまで、ニクソン訪中から6年近くがかかりました。しかし、日本は、あっという間にそこへ突き進んだわけですから。
◆「承認」「同意」ではなく「理解」
── ただ、日中国交回復の共同コミュニケを作るときは日本も相当知恵を絞ったようですね。
台湾の地位について、中国が「不可分の一部」と主張したことに対して、日本側は「十分理解し、尊重する」として一定の理解を示しながら、「承認」「同意」といった表現は避けました。また、サンフランシスコ平和条約で台湾を放棄した以上、その帰属について日本として言及することはない、との立場をとっています。中国によって日本が中国の主張を全部認めたかのようなイメージが広められていますが、実際は違います。
── 日本社会でも中国の主張がうまく宣伝に利用されている点がありますね。「一つの中国」原則が受け入れら れているという話が一般に通用しているように思います。
米中間の共同コミュニケで、米国は「アクノ─リッジ」(ackowledge)という英語を使いました。「承認」「同意」ほど明確ではなく、「認識します」の意の曖昧(あいまい)な言葉です。
── 日中間のコミュニケが下敷きに使われたのではないですか。
当時の東西冷戦下で、日中間のコミュニケを十分参考にしながら米国が考えたのでしょう。その後の「曖昧戦略」と呼ばれる、米中の同床異夢の関係の元になっていると思いますね。
── 72年体制という言葉がありますけれども、このアレンジメントが半世紀ずっと続いているわけなので、これ はすごいことです。
日本としては中国に対応する時、同盟国である米国との関係を盤石なものにしておく必要があります。米国がたまに、日本が予測できないような動きをすることがあることについては細心の注意を払う必要がありますね。
◆李登輝以降の客観的評価
── 台湾では李登輝以降、日本の統治についてはプラスもあればマイナスもある、というように客観的な評価が行 われるようになりました。
台湾では38年間に及ぶ戒厳令が解除されて民主化へ動き出し、言論・出版の自由も広がるなか、中学生向け歴史教材『認識台湾』が出版されたのは李登輝政権下の97年のことです。50年間の日本による台湾統治の初期には、日本が対日抵抗運動を厳しく弾圧したこと、1930年の「霧社」事件は「義民たちの武装抗日事件」であったと述べています。
一方で、日本が台湾の「経済改革と建設を積極的に推進し」、鉄道、道路、港湾、農業灌漑用水の建設、治安の維持、製糖業などの産業開発、衛生観念などの育成など、台湾近代化の基礎を形成したとして、いくつかの肯定的事例を列挙しています。蒋介石政権時代の「日本による台湾統治は残虐な50年間であった」という簡単な評価と比べ、驚くべき変化です。
── 東アジアでは、日本の隣人のなかでは台湾との相互感情だけが良好で、 例えば、韓国や中国などとはうまくい っていません。長年、東アジア外交に関わった経験から、どう思われますか。
もう十数年前のことになりますが、日台交流協会の台北事務所代表の頃、台湾の外交部のある友人が話してくれたことを忘れられません。彼は、「世論調査で、米・日・中・韓などいくつかの主要国を挙げてどの国が好きか聞く設問で、日本が米国を少し上回って1位になり、中国は相当離れて3位、その後に韓国が続いている。日本が米国を抜いて1位になったことは注目すべき」と言いました。
率直に言って、私自身は、台湾の人たちにとっては、米国は「台湾関係法」という国内法を持ち、安全保障面で台湾防衛にコミットしており、また留学性の数だけ取れば、米国への留学生の数が圧倒的に多いので、「米国が好き」という台湾住民は今後も変わらず、多いに違いないと思いました。
しかし、その後、世論調査のたびに、日本と米国の格差はどんどん広がっています。世論は、本来動きやすいものですからその数字だけに安住することは出来ませんが、今やダントツで「一番好きな国は日本」ということが定着したようで、大変うれしいことであり、またありがたいことです。
2011年の東日本大震災では、台湾住民からの義援金は二百数十億円に上りました。外交関係のない2300万人からの多額の浄財に日本人は感激しました。近年、この時ほど台湾の存在を身近に感じたことはなかったのではないでしょうか。
── 中華民国の歴史観から、台湾の歴史観へと、李登輝時代から時間をかけて変えていったのですよね。それは、 過去から現在への連続性のある歴史として日本統治時代を評価することになりました。
私はオランダ大使もしていました。明治時代のお雇い外国人でオランダ人土木技師のファン・ドールンは、猪苗代湖(福島県)の水を郡山盆地へと引く「安積疎水」の建造を指導しました。かつては不毛の地と呼ばれた大地が潤ったことに感謝し、地元の農民は彼の銅像を建てました。
太平洋戦争末期、日本政府は砲弾にするための金属類回収令を出しましたが、地元の農民はファン・ドールンの銅像を山中に隠しておいて、戦後に引っ張り出してきたというのです。この話は台湾南部の烏山頭ダムの八田與一の件に似ているところがあります。八田の銅像も戦後、蒋介石政権下で地元農民たちがしばらく隠していたそうです。
ファン・ドールンをたたえた碑文に「人生は短きも、事業は長きこと、ファン・ドールン君においてこれを見る」と刻まれているそうです。地元の農民たちに共通して、「自分たちによくしてくれた人を大事にしたい」という気持ちがあるからこそ、2人の銅像は残されたのでしょう。
◆尖閣緊張の中で受け取ったメッセージ
── 池田さんが日台交流協会台北事務所代表を務めた2005〜08年の間に、総統が陳水扁氏から馬英九氏に代わり ました。日台関係は今日ほど安定しておらず、尖閣諸島をめぐる対立もありました。
尖閣諸島問題では、在任中に二度にわたって緊張した状況を経験しました。馬英九政権に代わった直後の2008年、尖閣諸島の近くで日本の海上保安庁の船と台湾の漁船「聯合号」が衝突する事態が発生しました。新政権の決定過程が不明確な状況下で、台湾の議会において論戦が交わされ、「日本との間で一戦も辞さず」という強硬な発言が出てきたりして、心配したことがありました。さらに、衝突事件の直後には、日本への抗議の意味から、台湾側の何艘かの船が尖閣諸島の領海に入っていくという異例の事態にまで発展しました。
緊急を要するため、夜中でしたが、私は欧鴻?外交部長(外務大臣に相当)と直接電話で話し合いました。その時、欧氏の述べた「日本との衝突は避けたい」「台湾船はこれ以上、島には接近しないだろう」という言葉を今でも鮮明に覚えています。同部長は尖閣は台湾の領土であるとの立場を繰り返すしたので、それに対しては、尖閣が法的にも歴史的にも日本固有の領土であり、現に日本はそれを有効に支配していることを改めて強調しました。
実は、陳水扁政権の時代にも似たようなことがありました。2005年に台北に赴任して2週間目ぐらいのタイミングでした。日本が尖閣周辺の警備を厳格にし始めたことへの対抗措置と称して、台湾の艦船が尖閣諸島の領海の近くにまで近寄ったことがありました。緊張が高まっていたある日の夜、陳水扁総統の秘書官から「船はこれ以上島に接近しないことをお伝えしたい」との短い電話連絡を内々受けました。私は発言の内容は当然、最高責任者の陳水扁総統の指示に従っているのだろう、と推測しました。漁業権の問題も整理した2013年の日台漁業協定の締結で現況は安定化しています。
◆台湾は重要なパートナーで友人
── 日本にとって台湾の重要性をどのように、見ておられますか。
外交関係こそありませんが、台湾は日本にとって重要なパートナーであり、友人です。アジア・太平洋地域に占める台湾の安全保障上及び経済上の役割の重要性に鑑み、活動の国際空間がより広がるように、日本として積極的に台湾を支持、支援すべきだと思います。
もう一つは日台交流の制度化の問題です。台湾での在職中、何かあると総統と直接アポイントをとって面談して話し合うことができました。逆に、日本においては、台湾の関係者はそうはいかないのが現実で、悔しい思いをしているに違いありません。最近、米国議会で採択された高官の人的往来を可能にする「台湾旅行法」のような法律を日本も持つことが望まれます。
さらに、もし将来台湾周辺海域や台湾において、軍事的に「有事」が発生し、在日駐留米軍が台湾防衛のために出動する事態となれば、日本としては安保関連法案を踏まえ、米軍支援のために、自衛隊を出動させることになります。そのような事態に備え、種々の場合を想定して行動する必要がありますが、「台湾有事」は「日米にとっての有事」と言えます。
──────────────────────────────────────※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。