第17回李登輝学校研修団に参加して学んだこと(2)  岡 真樹子(第17期生)

「老台北(ラオタイペイ)」にお会いしました

 いささか前のことになりますが、4月26日から30日にかけ、17回目となる「日本李登輝学
校台湾研修団」(略称:李登輝学校研修団)を行いました。団長は本会理事で岐阜県支部
長の村上俊英(むらかみ・としひで)氏、副団長は研修団参加も3回目となる嶋田敦子(し
まだ・あつこ)さん。

 全国各地から35名が参加。岐阜県支部からは、村上支部長をはじめ、田代正美(たし
ろ・まさみ)名誉支部長、須賀敦士(すが・あつし)事務局長、阿部伸一郎(あべ・しん
いちろう)東濃分会長など8名も参加しました。

 最高齢は、本会理事で滋賀県支部長をつとめる竹市敬二(たけいち・けいじ)氏の85
歳。第1回(平成16年10月)を除いて今回で16回参加という、まさに研修団のシンボル、い
やアイドルのような存在です。高齢にもかかわらずすこぶるお元気で健脚、今回も夜な夜
な「竹市部屋」で「夜の研修」が行われました。

 初日の蔡焜燦(さい・こんさん)先生による「台湾と日本の歴史と絆」と題した講義に
始まり、許世楷(きょ・せいかい)前台北駐日経済文化代表処代表ご夫妻に案内していた
だいた台中の白冷圳視察などを経て、最終日の待ちに待った李登輝先生による特別講
義「国際社会における日本の現状」まで、とても充実した研修となりました。

 初参加者の岡真樹子(おか・まきこ)さんも感激の連続だったようで、参加した感想を
写真とともにブログ「花時計」に掲載しています。6回に分けて掲載していましたので、本
誌でも6回分載でご紹介します。本日はその2回目です。

 なお、ブログでは毎回、タイトルが変っていますので、本誌では「第17回李登輝学校研
修団に参加して学んだこと」とし、ブログのタイトルをサブタイトルとしてご紹介しま
す。


「老台北(ラオタイペイ)」にお会いしました  岡 真樹子(第17期生)
【ブログ「花時計」:平成24(2012)年5月12日】
http://blog.livedoor.jp/hanadokei2010/archives/3406810.html

 4月26日「第17回李登輝学校研修団」に参加して台湾へ行ってきました。首都・台北(タ
イペイ)に着いて一休みして、夕方、蔡焜燦(さい・こんさん)氏の講義がありました。
『台湾と日本精神―日本人よ、胸を張りなさい』(小学館)、「これが植民地の学校だろ
うか─母校『清水公学校』」(榕樹文化)など、日本でも本を何冊も出されているのでご
存じの方も多いと思います。司馬遼太郎の『街道をゆく─台湾紀行』の中に「老台北(ラ
オタイペイ)」という愛称でしょっちゅう登場する方でもあります。

 蔡焜燦さんは実業家で、半導体デザイン会社「偉詮電子股分有限公司」=偉詮電子株式
会社の名誉会長であり、「李登輝民主協会」理事長でもあります。李登輝さんの右腕、と
言っても良いでしょう。昭和2年(1927年)生まれということですから今、85歳。満面の笑
顔で私たちを迎えてくださいました。講義のテーマは「台湾と日本の歴史―両国の友情の
絆」、通訳はもちろん必要ありません。

 去年、東日本大震災が発生した時、台湾が真っ先に救援隊を送る、と申し出てくれたこ
とはまだ記憶に新しいできごとです。義援金の額も台湾はなんと世界一でした。蔡焜燦さ
んはそのことをとても「誇らしい」とおっしゃいました。そして、それは1999年9月21日
(台湾では「921地震」と呼びます)、台湾で大地震が起きたとき、日本から民間の救援隊
が真っ先に駆けつけてくれたことを台湾の人々は忘れなかったからだ、とおっしゃいまし
た。

 日清戦争に勝って1895年、日本は清(しん)から台湾を割譲されました。その時、清側
の代表だった李鴻章(り・こうしょう)は台湾を「化外(けがい)の地」、つまり未開の
土地、と呼びました。こんな野蛮な、荒れ果てた土地なんか日本にやるから勝手にしろ、
という意味です。

 実際、当時の台湾はこれといった産業もなく、鉄道も道路もダムもなく、亜熱帯特有の
風土病が蔓延する貧しい土地でした。台湾には3000メートル以上の山が258もあり、さまざ
まな民族が住んでいました。日本人はもともと台湾のことを「高砂(たかさご)」と呼ん
でいたので山岳民族のことを「高砂族」と呼びました。今でも結婚式の時に「高砂や〜
〜」って歌いますよね? 「高砂」は良い意味の言葉なのです。

 当時、台湾には言葉も風俗・習慣もさまざまな民族がいました。中国大陸から来た者も
いたし、原住民もいました。いくら日本が統治するようになったからといってある日突
然、日本人になれと言ってもなかなか受け入れられないでしょう。そこで台湾の初代総
督、樺山資紀(かばやま・すけのり)は2年間の猶予を与えたそうです。2年経って、日本
人になってもいいと思ったら国籍を取りなさい、と言ったそうです。

 日本政府が台湾を統治する方針は「内地並みにする」ことでした。内地、つまり日本列
島に住む日本人と同じぐらいのレベルの生活水準にする、ということです。

 1895年6月7日、台北城に無血入城した日本軍は6月9日、早くも「基隆(きいるん)病
院」を開設、13日には伊藤博文を局長とした「台湾事務局」を設置して医師1人、看護婦20
人、薬剤師9人を送りこんでいます。

 第4代の児玉源太郎総督時代に内務省衛生局長をしていたのが有名な後藤新平です。後藤
は台湾に医療衛生を普及させることに情熱を注ぎました。医療機関を充実させ、医師を養
成し、今でも「台湾近代化の父」として尊敬されています。

 日本人は台湾人に二つのことを教えた、それは「公」と「私」の区別、そして「モノ作
りの精神」だ、と蔡焜燦さんはおっしゃいます。

≪東南アジアの経済は華僑が握っています。しかし華僑は金融にしか興味がありません。
モノ作りの精神は彼らにはないのです。しかし、台湾には世界一のメーカーがいくつかあ
ります。これは日本人がモノ作りの精神を教えてくれたからです。≫

 昭和7年(1932年)、ロサンゼルスオリンピックで日本は金メダルを7つ、取ったそうで
す。当時、蔡焜燦さんはまだ5歳だったわけですが、その時の感激を今でも覚えているそう
です。その時に歌った「あがる日の丸」という歌を最後に歌ってくださいました。蔡焜燦
さんは包み込むような暖かーい雰囲気の方で、なにか田舎のおじいさんに会ったような気
がして胸が熱くなりました。                      (つづく)


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