産経新聞が生前インタビュー「激動の台湾を生きた蔡焜霖氏」を掲載

 去る9月3日に満92歳で亡くなられた故蔡焜霖氏の告別式は、9月24日、台北市内の第二殯儀館で行われました。

 本会常務理事の王明理さんは、生前の蔡焜氏から送っていただいたメッセージとともに、告別式に参列した三宅教子さん(元台湾歌壇事務局長)から伝えられたと、当日の模様について「告別式にはそのお人柄を慕って、各団体、大学関係者、人権問題関係者など何百人という人が詰めかけ、外で待つ人も多かったそうである。泉裕泰大使(台湾交流協会台北事務所代表)も参列された」ことを紹介していました。

告別式には文化部の王時思政・副大臣も参列し、台湾政府は国家に多大な貢献をしたことを嘉し、長男の蔡炎龍さんに蔡英文総統が発令した「褒揚令」が授与されました。

 この「褒揚令」はこれまで各界の方が受賞し、李登輝元総統の告別式では蔡英文総統自ら長女の李安娜さんに手渡されたことを思い出します。

 産経新聞は今年3月に生前の蔡焜霖さんにインタビューし、告別式後の9月28日と29日に掲載しました。いささか長文ですがご紹介します。

 それにしても、実兄の蔡焜燦氏といい弟の蔡焜霖氏といい、台湾を思い、日本を思う心意気というかその気概に頭が下がります。

 蔡焜霖氏は王明理さんに「今は杖ついて歩くのにも苦痛を覚え、背も曲がって普段は真っすぐ立つのも難しい状態」でありながら、毅然として「台湾の白色テロはいまだに収束していないばかりか、今度は中国大陸からの赤色テロと結びついて台湾併呑を企んでいることであり・・・老耄(ろうもう)の私も最後のご奉公とかけ参じる覚悟です」と書き送られた心意気。日本人もこの心意気こそ鑑とせねばと思いつつ、産経新聞のインタビュー記事を読みました。

—————————————————————————————–激動の台湾を生きた蔡焜霖氏(上)【産経新聞:2023年9月28日】https://www.sankei.com/article/20230928-37UB2YIZJVLKZCVSTHH6HUUQY4/?467480

激動の台湾を生きた蔡焜霖氏(下)【産経新聞:2023年9月29日】https://www.sankei.com/article/20230929-JUSNIHVDFNI4DIHHJNXLCLTPUA/?668596

◆信じられなかった「敗戦」 日本時代「人格の基」に

 日本統治時代の台湾に生まれ、戦後は日本の漫画を翻訳するなど台湾への日本文化の紹介に貢献した蔡焜霖(さい・こんりん)氏=享年(92)=が3日、死去した。台湾中部の台中に生まれ「軍国少年だった」蔡氏は戦後、政治犯として国民党政権に10年に渡り拘束された経歴も持つ。蔡氏は今年3月、産経新聞の取材に、激動の時代を生きた自身の体験を詳細に語った。

・地元は「下賜金」を基に整備

 「ようこそ、台湾ではどこに行きましたか?」

 3月10日夕方、台北市の台北教育大学の向かいにあるマンションの一室で、はっきりとした日本語で、蔡氏はこう記者を迎えてくれた。

 「私は昭和5年、台中の清水(きよみず)の生まれなんです」。蔡氏は日本人の記者に対しては年号で、地名も戦前通りの日本語読みで話す。

 戦前、台湾には小学校と公学校があった。主に日本人が通うのが小学校、台湾人が通うのが公学校だ。蔡氏が入学した清水公学校は「レンガ造りで教室一つ一つにスピーカーがあって、内地(日本)と比べても新しい最新の設備でした」と振り返る。

 学校が最新だったのには理由がある。昭和10年、台中は大地震に見舞われ、清水の街は大きな被害を受けた。そこへ、昭和天皇が派遣した勅使(ちょくし)がやってきて、復興に向けて見舞金を下賜(かし)。この下賜金などを基に、街は碁盤の目のようにきれいに整備され、公学校も移転して新しくなったという。「街の人はこのことをずっと誇りに持っていました」

・中学進学後に戦争激化

 蔡氏が清水公学校(後に清水南国民学校に改称)を卒業し、台中一中に進学した頃から、戦争が生活にも大きな影響を及ぼすようになる。軍用の飛行場に行って草刈りをしたり、近くに駐屯していた軍の兵営の陣地構築や蛸壺壕(たこつぼごう)と呼ばれる塹壕堀りをしたりする作業に駆り出されるようになった。

 昭和20年、3年生に上がるとすぐ警備招集がかかり、訓練に明け暮れた。「武器が少ないので、竹槍を握っての訓練でした。米軍の上陸を防ぐために、竹竿に小さな爆薬を付けて、戦車の下に潜り込んで自殺攻撃をする訓練もありました」と明かす。

 「怖くはなかったのか」と問うと、「学友も先生もみな一緒で、学校の延長みたいで全然怖くなかった」。蔡氏は飛行場を守る高射砲陣地にも配属されたが「空襲が激しい場合は逃げ出してサトウキビ畑に隠れてね。サトウキビを折って食べて楽しかったですよ」とこともなげに語る。

 終戦は突然訪れた。8月15日には何も聞かされず、16日の朝に招集され、指揮官が「天皇陛下はポツダム宣言を受諾して無条件降伏された」と説明した。「唖然としました」。蔡氏は振り返る。「軍国少年だった私は、日本が負けるとは夢にも思っていなかった。『教わったことは全部嘘だったのか』と一気に醒めたような気持ちになりました」

・「本の虫」だった少年時代

 「日本時代は庶民が警察に殴られたり、連れて行かれたりするようなことは私の周りではありませんでしたね」。戦後、国民党政権下で拘束されることになる蔡氏は、戦前をこう懐かしむ。

 「兄弟はみんな学校に行っているので、家では日本語と台湾語のミックスでしゃべっていました。父は日本語を話せたけれど話さなかったし、母は全く話せなかったので、両親とは台湾語でした」と話す。

 日本語で日本人としての教育を受け、日本の勝利を疑わなかった少年時代の蔡氏にとって、「大きな失望」となった敗戦までの15年間は何だったのか。自身は「人格形成の基となった」と分析する。

 岩波文庫で多くの古典や文学を読みふけり、創作童謡も心を揺さぶった。「『赤とんぼ』という雑誌があって、北原白秋や西條八十、小川未明など文学的に高い地位にある人が子供のために詞を書き、これにメロディーをつけて歌われていた、あれは素晴らしいものでした」

 幼少期から「本の虫」だった蔡氏の読書体験と、日本の作品への親しみは戦後、日本の作品を台湾に紹介する活動につながっていく。しかし戦後まもなく、この読書が「あだ」になるという、予想だにしなかった苦難が待ち受けていた。

(橋本昌宗)

◆突然の拘束、釈放後も差別に苦しみ

 1950年9月10日。それは、とても気持ちの良い秋晴れの日曜日だったという。日本統治下の台湾で生まれ、49年に高校を卒業して地元・台中の清水(きよみず)で町役場に就職した蔡焜霖(さい・こんりん)氏=享年(92)=はこの日、突如拘束される。釈放後もついて回る長い地獄の始まりだった。

・戦後台湾の春

 日本の敗戦後、台湾は国民党が支配する中華民国の統治下に移る。「それまで読めなかった日本の本、習い始めたばかりの中国語の本、なんでも読めるようになりました」。ごく短い期間だったが、やってきた自由な台湾。蔡氏はこの時期を「戦後台湾の春」と呼ぶ。

 しかし、中華民国となった台湾には、大陸から官僚や軍人、民間人も含め多数の人がやってきたため、軋轢も生まれた。

 47年には、経済情勢の悪化や、大陸出身の官僚、軍人への不満が爆発し、台湾各地で起こった暴動に対して、国民党政権が力で抑え込んだ「2・28事件」が発生。国民党は大陸での共産党との内戦に敗れ、台湾を本拠地とすると、49年に戒厳令を発令。知識人を次々捕らえては処刑者も出す政治弾圧「白色テロ」の時代がやってきた。

・読書会がやり玉に

 蔡氏は高校在学中、「本の虫」だったこともあり、教師から「先生たちが開いている読書会に参加したらどうか」と誘われた。そこでは、いわゆるプロレタリア文学なども扱っていて面白かったが、家計に余裕がなかった蔡氏はほんの短期間しか参加しなかった。

 数年後の50年9月10日、高校を卒業して就職した町役場で仕事をしていた蔡氏の元に、変わった帽子に半ズボン姿の見知らぬ男がやってきた。「君は蔡焜霖という名前か」「近くの警察署はどこだ」と矢継ぎ早に尋ねてくる。

 蔡氏が警察署まで案内すると、男が窓口で資料を取り出して警察官に示したかと思うと、突然留置場に放り込まれた。容疑の説明もなく、男が憲兵だということだけが少し後に分かった。

 しばらくすると別の街に連れていかれ、尋問を受けた。初めは柔らかい調子で「高校で何か反乱組織に参加したか」という質問だった。「心当たりがない」と答えると、「思い出せ、団体に参加しただろう、あれは共産党の組織だ」と殴る、蹴るの暴行を受けた。

 高校で参加した団体は読書会しかなかった。それをいうと「そうだ、あれはみんなアカ(共産主義者)だ。参加していたやつの名前をいえ」と迫ってきた。蔡氏は短期間しか参加していなかった上、時間も経過していてはっきり覚えていなかった。すると、足の親指に電線を巻き付けて電気を流す拷問に変わった。

 拷問が済むと、「この書類に母印を押せば3日もすれば帰してやる。お前の学友はみんな認めたぞ」とそそのかされた。解放されたい一心で書類も読まずに母印を押したが、釈放はされなかった。「3日が10年になるとは、なんとも言えない気持ちです」

・すし詰めの房に

 拘束される場所は台南、台北と次々に移っていく。台北では日本統治時代に兵士の懲罰房だったとされる建物に入れられた。「床もヒノキでしっかりした建物でしたが、狭く仕切られた部屋に十数人が押し込められていました」

 蔡氏が入れられたのは「1号室」と呼ばれた部屋で、「調査室」と呼ばれた尋問部屋が近かったため、「夜中でもうめき、叫び、呻吟する声が漏れてくるんです」。ここで一緒だった人たちは後で死刑になった人も多かったが、蔡氏は「読書会の高校生なんて、相手にもされなかった」

 次に移された建物で待ち受けたのは、さらに狭い房だった。「5、6坪(10畳程度)の部屋に、28人が押し込められました。一番新人の私の寝場所は、便器として使われた木の桶のすぐ脇です」。狭い房では「前の人の背中に自分の胸をくっつけて、イワシの缶詰みたいに並んで寝るしかなかった」という。窓もなく、空気は常によどみ、季節は秋から冬になろうとしているのに蒸し暑さでみな服を脱ぎ、パンツ1枚で寝起きした。

 最後に移されたのが、現在は「緑洲山荘」と呼ばれている、台湾の東部に浮かぶ離島、緑島にある収容所だった。10年間を過ごしたが、蔡氏は「食べ物はあるし、恨んでも怒ってもどうしようもない。みんなでわいわい一緒にいて、獄内で英語の勉強をしたりもしていました」と、あきらめがついて逆に気楽だったと笑って話した。

・釈放後も

 10年間の収容所生活を終え、釈放された後も、「拘束された」という事実はついて回った。

 教師になることが夢だった蔡氏は、教師を養成する学校ができたと聞き、入学する。そこで正直に、「この者の思想は改造されている」と書かれた釈放証明書を提出したのが誤りだった。いったん入学は許可されたものの、2か月後には「学校教員の素質を向上させるために作った学校に、そういう人は困る」と自主退学させられた。

 「同じ境遇の人に後から聞いても、緑島よりも出てからの方が大変だったそうです」と蔡氏は明かす。「みんな、2・28事件で祖国に失望して、これからどうしていくべきか、勉強して、話し合おうという人ばかりだった。それがひとたび白色テロにかかってしまったら、おしまいなんです」

 蔡氏はそこで自分で事業を立ち上げ、翻訳した日本の漫画などを掲載した雑誌「王子」を発行し、日本文化の紹介に努めるとともに、日本の作風を取り入れた台湾の漫画も掲載するなど文化の育成に努めた。しかし、この事業も工場が水害に遭って壊滅し、破産の憂き目にあう。次いで就職した企業には、かつて拘束されていたことはひた隠しにして仕事をしたという。

 激動の人生を歩んだ蔡氏は2021年、日本文化の紹介に貢献したとして、日本の勲章「旭日双光章」を受章する。その蔡氏にとって、白色テロの記憶は、現代の香港と重なって見えた。「今日の香港は明日の台湾だとよくいわれますが、我々は70年前に経験しているんです」。蔡氏はいう。

 「暴力で人民を弾圧する、こういう人たちはまた白色テロと同じことを起こします。気を付けなければならない」

 こう強調する蔡氏の姿は、92歳の年齢に似合わず、自身の体験を少しでも多くの人に伝えようとする使命感に燃えているようだった。

(橋本昌宗)

──────────────────────────────────────※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。


投稿日

カテゴリー:

投稿者: