◆王育徳紀念館が台南で開幕
2018年9月9日、台湾・台南に父、王育徳(1924〜85年)の紀念館がオープンした(筆者注:台湾では「記」ではなく「紀」の字を使用)。台南市内の父の実家からも近い呉園という名所の中で、池の畔の建物一棟が充てられた。父の33回目の命日にあたるこの日、しのぶ花ではなく、李登輝元総統をはじめたくさんの方々から贈られたお祝いの花が飾られていた。一生を台湾のためにささげ、それ故に国民党独裁政権の下では帰国を許されなかった父が、故郷に迎えられた日であった。父のそばでずっと支えた93歳になる母も一緒に開館式に参列することができた。
開会式はオペラ歌手古川精一氏による「祖国台湾」(作詞作曲王育徳)の独唱で始まった。「台湾はわが祖国、われここに生きここに死す」と歌う厳かな声が、父の生まれ育った地に染み渡ってゆくようであった。続いて師範大学の声楽家のみなさんが美しい日本語で、父の好きだった唱歌「故郷」を歌ってくれた。「こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷」の一節を聴いた時、堪えていた涙がとまらなくなった。
詩人李敏勇氏はこの日のために書き下ろした「流亡、帰郷―紀念王育徳前輩」を朗読。その後、来賓のみなさんが父の人生について語り、最後に私たち遺族が謝辞を述べた。特筆すべきなのは式典が全て台湾語で行われたことだ。「台湾人は台湾語を大事にしなければならない」と主張した父にふさわしい式典であった。
◆頼清徳氏の“英断”によって建設が決定
「王育徳記念館」を作る話は、以前より台南市の文学者や台湾語研究者たちから出ていたが、2016年5月、蔡英文政権が発足した直後、当時の台南市長であった頼清徳氏の英断によって決定した。以後、文化局は建物の整備に、私たち遺族は遺品の整理とリストアップに取り組んだ。普通、故人の記念館を作る時には、遺品が散逸し、展示品を揃えるのに苦労するらしいのだが、父の場合はその逆で、物が多すぎて取捨選択に苦労した。というのは、母が父に関係する物は紙切れ一枚たりとも捨てずに取っておいたからだ。
完成した紀念館には戦前と戦後の台湾と日本にまたがる数多くの遺品が展示され、全てに中国語(一部は台湾語)と日本語併記の説明が付記されていることから、台湾だけでなく日本からも多くの見学者が訪れている。開館して半年で来館者が2万人を超えたという報告があった。
先ほど頼清徳氏の“英断”と書いたのには理由がある。普通、公の機関が建設する個人の記念館は、例えば夏目漱石や森鴎外というような誰もが知っている人物に限られるが、台湾で王育徳の名を知る人はそこまで多くない。さらに、父は61歳で他界するまで国民党政府のブラックリストに載っていたような人物だった。あえて台南市がそのような人物の記念館を作ることになった背景には、王育徳個人のことだけではなく、台湾の戦後史や王育徳が世に問い続けた台湾アイデンティティーを記そうという思いがあると思われる。
◆戦後日本に亡命
王育徳は1924(大正13)年に台南市本町(現在の民権路二段)の海産物問屋に生まれた。日本統治が始まって30年がたった頃で、日本の行政やインフラ、教育制度が台湾全土に行き届いた時期であった。親の意向で父の兄弟姉妹は日本人が入る良い学校へ進学することを目指しつつも、一方では自宅に招聘(しょうへい)された漢学者から漢文教育を受けて育った。育徳の父親は家業のほかに社会事業家としても知られ、育徳は敬愛する兄、王育霖と将来台湾社会の役に立つ人間になろうと約束し、兄と同じ台北高等学校、東京大学へ進学した。
しかし、戦況の悪化のため学業途中で台湾に疎開し、そのまま終戦を迎えた。戦後の台湾では日本の作った秩序は脆くも崩れ去り、代わって進攻してきた国民党の下で台湾人全般が重要な社会的ポストからはじき出され、中国人の下で呻吟(しんぎん)することを強いられた。育徳は台南一中の教師の職を得たが、その傍ら演劇活動にも取り組んだ。子どもの頃から劇に親しみ文学好きだった育徳に演劇は性に合っていたようで、原作、脚本、演出、主役までこなし、一躍時の人となったが、劇中で国民党政権を風刺したことから、政府に目を付けられ、それが後に亡命を余儀なくされる原因となった。
47年の二二八事件(※1)で未来を嘱望された多くの台湾人が虐殺されたが、兄の育霖も犠牲者の一人となった。育霖は台湾人で初めて日本の検事になり、戦後は台湾の法曹界を担うつもりで帰国し、新竹市の検察官となったが、正義感が強かったが故に中国人ににらまれ、わずか28歳で命を奪われてしまった。
国民党政権の監視の目は厳しさを増し、育徳の周りでも演劇仲間や同僚教師、教え子が次々と逮捕されていった。このままいれば命が危ないと諭された育徳は、台湾を一時的に離れる決心をし、49年、25歳の時、パスポートもビザも持たずに香港経由で日本へ脱出した。翌年、国際情勢から見て台湾の蒋介石政権は継続しそうだと判断した育徳は帰国を諦め、妻子(筆者の母と姉)を呼び寄せた。そして、53年日本に正式な亡命を認められた。
◆仕事の中心にあったのは台湾への愛
王育徳はその後、二度と台湾に帰れぬまま、日本で61歳の生涯を閉じた。しかし、日本で得た自由な環境の中で、さまざまな台湾に関する仕事をすることができた。つまり、日本に来たからこそ、台湾のために生きることができたのだ。これも李登輝元総統が述べた「台湾人に生まれた悲哀」の一つの例と言えるかもしれない。
育徳はまず東京大学に復学し台湾語の研究に取り組んだ。大学院在学中に台湾語の辞書『台湾語常用語彙集』を出版し、後に「台湾語音の歴史的研究」により文学博士となった。大学で教える傍ら、台湾文学の研究、台湾独立運動(中華民国体制からの独立)、台湾の歴史書の執筆、台湾人元日本兵士の補償請求運動などに全力を傾けた。仕事は多岐にわたるが、そのどれもが、祖国台湾への思慕と台湾人への愛情から生まれ来るものであったと思う。
(※1) 二二八事件:1947年2月28日に発生した台湾人の抗議運動に対して国民党政権が行った弾圧事件。台湾人の要求に対し、蒋介石は大陸から陸軍、憲兵などを差し向け、ひと月足らずの間に、約3万人の台湾人を殺害した。特に、日本教育を受けた有識者、知識人、学生などが狙われ殺された。犯行を行ったのが政府であったため、犠牲者の家族も泣き寝入りせざるを得ず、長い間、語ることもタブーとされた。世界で初めて二二八事件を特集した出版物が王育徳の主宰した『台湾青年』第六号(1961年2月発行)であった。
◆王育徳の生涯を5つの部屋で展示
紀念館では王育徳の生涯や取り組んだ事を5つの部屋に分けて展示してあり、パンフレットには各部屋にキャッチフレーズを付けて紹介している。(カッコ内は筆者による補足)
第一室:文学青年から多面的活動家へ(幼少期から亡くなるまでの遺品、著作などの展示の他、公視テレビの作成した「台湾百年人物誌―王育徳の巻」の上映)
第二室:言葉は民族の魂である―台湾語の研究―(台湾語に関する論文や著作の展示、著書『台湾語入門』『台湾語初級』の為に王育徳自身が吹き込んだ音声が聴ける装置など。この部屋は説明文も台湾語を使用)
第三室:民主と自由を求めて ―台湾独立運動―(台湾独立運動の同志の紹介、機関誌『台湾青年』が創刊号から500号まで閲覧できる装置、王自身が吹き込んだ「台独の声」が聴ける電話など)
第四室:非情の判決を乗り越えて ―台湾人元日本兵補償―(王育徳が1975年から亡くなるまで全力を注いだ台湾人元日本兵士のための活動の全般の説明や活動に使用された資料の展示)
第五室:小さな書斎が大きな世界を開く……(王育徳の書斎の再現。東京の自宅から搬入された勉強机、書棚、文房具、〈台湾青年社〉の会議や補償問題の事務に使われた座卓、碁盤などの展示)
◆民主化のための種まきに徹した人生
しばしば、「王先生はたった61年の人生でよくこれだけ多くの仕事ができましたね」と言われることがあるが、実際には父の生き方は非常にシンプルで、「台湾は台湾人のもの。台湾人が幸せに暮らせる国をつくりたい」というただ一つの信念に従っていただけなのだ。「自分の国を持ち母語を話し誇り高く生きること」が、人間にとってどれほど大事なことかを父は身を持って知っていたからだ。
父は志半ばで1985年9月9日、心臓発作のため亡くなった。だから、86年の民進党の誕生も、87年の戒厳令の解除も、台湾人元日本兵士補償問題の解決のための議員立法の成立も、88年の李登輝総統の誕生も見ることができなかった。一生を種まきに徹し、花が咲くのを見ずに逝ってしまった。
ただ、生前に著書『台湾−苦悶するその歴史』が密かに台湾に持ち込まれて回覧され、多くの人に影響を与えたことや機関誌『台湾青年』が日米欧の留学生たちの共通理念を形成することに役立ったことを知っていただけでも十分なやりがいを感じていたに違いない。
それに、日本における父の人生は決して不幸ではなかった。身一つで密入国した日本だったが、多くの日本人と深い友情を育むことができたし、台湾人の同志と共に台湾独立運動にまい進することができた。「王先生はいつもニコニコして一緒にいて気持ちのいい人でしたよ」と話してくれる人も多い。家庭でも父はいつも穏やかで優しかった。
父の「報われなくても努力する」という生き方は母や私にも染み付いていて、紀念館を作ってもらったことがいまだに夢のように思える時がある。古今東西、政府から命を狙われて脱出した後、故国に紀念館を設けてもらえる例は数少ないのではないだろうか。
これも台湾が一党独裁体制を覆し、民主的な政治が行われるようになったから可能になったことで、それこそが、父が生涯願い続けていたことであった。
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王明理(おう・めいり)東京都生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒。台湾独立運動の先駆者で台湾語研究者だった王育徳・明治大学教授の次女。2011年9月、台湾独立建国聯盟日本本部委員長に就任し現在に至る。日本李登輝友の会理事、在日台湾婦女会理事、日本詩人クラブ会員、詩誌「阿由多」「プラットホーム」同人。
著書に、詩集『ひきだしが一杯』(創造書房、2003年)、詩集『故郷のひまわり』(玉山社出版、2015年)。訳書にジョン・J・タシク編『本当に「中国は一つ」なのか』(草思社、2005年)。編集担当書に『王育徳全集』(前衛出版社、2002年)、王育徳著『「昭和」を生きた台湾青年』(草思社、2011年)、王育徳著『台湾─苦悶するその歴史(Taiwan:A History of Agonies)』(前衛出版社、2015年)。解説担当書に王育徳著『王育徳の台湾語講座』(東方書店、2012年)。