野綾子さんが同行し、その詳細について、曾野綾子さんが「夜明けの新聞の匂い」を長
期連載している月刊誌「新潮45」8月号(7月18日発売)に「李登輝氏の靖国参拝」と題
して執筆していることをお伝えしました(8月15日発行、本誌第591号)。
曾野さんから本誌掲載へのご了承をいただきましたのでご紹介いたします。ただ、長
文ですので3回に分けてご紹介します。 (編集部)
李登輝氏の靖国参拝【上】
作家 曾野 綾子
李登輝前台湾総統がかねがね来日して松尾芭蕉の奥の細道の跡を静かに廻りたい、と
いう希望を持っておられたことは、多くのマスコミが書いていた。李登輝氏は戦前の京
大農学部の出身で、夫人の曾文恵さんも、日本語に関しては読み書きとも全く日本人と
同じだといつか話されたことがある。
私がご夫妻に初めてお会いしたのは私的なきっかけだったが、日本財団に勤めていた
九年半の間に、仕事としても数年に一度ずつお会いする機会があった。一度は一九九九
年の台湾中部の大地震の時、三億円のお見舞い金を持って行った時である。当時日本政
府の見舞い金は五千万円だったから、日本財団は、民間の財団としての自由な立場で、
国家よりももっとはっきりと隣人の痛みを担おうとする心を見せることができた。
こういう場合、私たちは別に李政権に肩入れしたのではない。フジモリ政権時代、ペ
ルーの僻地に五十校の学校建設を引き受けたのも同じ目的からである。フジモリ氏がペ
ルーを追われた後でも、あのアンデスの山中の主に貧しいインディオたちのために建て
られた学校はすべて機能しているであろう。もし機能していなかったら、それは現政権
の堕落と越権を示す証拠である。
その時台湾においても、私たちは民間の被災者たちの生活を建て直すために少しだけ
お手伝いをしようと考えただけである。私は総統府で李総統とお会いし、公的な口上を
述べた後で、以前お眼にかかっていたこともあったのをいいことに、
「このお金は決して大きな額ではございませんが、もし老人ホームが倒壊しているよう
なことでもありましたら、それを建て直して頂いて、後で日本の老人ホームのおじいち
ゃん・おばあちゃんたちがお訪ねして、いっしょにカラオケでも歌えるようなことにで
もなれば、嬉しいと思っております」
と言ったのである。それは、国家に対する寄付は、数パーセントの例外を除いて「あ
なたのお金はこれこれのことに使われました」という使途が明示されるケースが極めて
少ないのに苛立っていた私の希望を、それとなく、お願いという形で示したものであっ
た。
数年かかったが、李登輝氏はそれにきちんと応えてくださった。それまで台湾にはな
かった人命救助のための機器を備えた、政府と民間からなる国際消防隊が編成され、そ
の出初式に招いてくださったのである。これで日本に大規模災害が起こった時、台湾か
らの救援も当てにできるようになった。
しかし私には李登輝氏に関して、別の思い残しがあった。それは日本財団の姉妹財団
である社会貢献支援財団の日本財団賞の選考委員会が、長年日本の理解に尽力してくだ
さった方として、李登輝氏に日本財団賞を贈ることを決めたのに、理事会がそれを覆す
という結果が出たことだった。私は選考委員の一人としてその会に出席していたので、
一切の経緯を知り、その結果に苦慮したのである。
理事会が選考委員会の決定を覆す例は極めて異例であろう。その理由は数人の理事の
勇気のなさ故の怯えであったとしか思えない。
選考委員会では、どの候補者に対しても点数を入れて行って上位から受賞者を決める。
李登輝氏の場合も過半数の票が入ったのだから他の二十人近くの受貧者と同じ条件であ
った。
私の耳に入った反対の主立った理由は、三つあった。
第一は外務省が、李登輝氏にヴィザを出すかどうかわからない不安がある、というこ
とであった。そんなことは日本財団の問題ではなく、外務省の問題だ。もし出さなけれ
ば、私なり社会貢献支援財団会長なりが、台湾ヘ賞をお届けに行けばいいだけのことだ。
第二の理由としては、授賞式には毎年常陸宮同妃両殿下がご臨席くださる。政治的に
中国がらみで微妙な立場にある李登輝氏がもし受賞して出席すると、宮さまにご迷惑が
かかる、というのである。そんなことはないでしょう、と私は言った。もし李登輝氏が
授賞式に出席すれば、それは外務省が氏の個人的渡航を認めたことなのだから、その決
定にお従いになるだけで宮さまは少しもお困りになることはない。反対に外務省が氏に
ヴィザを出さなければ、氏はその式に列席していないのだから、これまた宮さまがお困
りになることはない。
第三の理由はマスコミ対策が大変だ、という怯えであった。そんなことは全部責任を
もって引き受けます、と私は言った。李登輝氏は既に私人である。日本で青春を過ごし
て、第二の故郷は京都である。私は李登輝氏から「昔の日本の貧乏学生は、ナットウ売
りのアルバイトをしたんだよ」と教えられたのである。一方日本財団は、一切の国家か
らの税金を受けていない一財団である。その両者の間の、立場を限定した選択をマスコ
ミが非難するなら、それは思想・学問の自由に対する侵害だから、私は戦うだけであっ
た。
しかし私は理事会の決定には従った。そして日本財団は、それまでの外務省の弱腰に
対して一つの選択を迫る好機を失った。氏の受賞は何の問題もなかったことは、今回の
李登輝氏の来日の第一の目的が後藤新平賞の受賞であることもそれを示している。
私は内定していた賞を取り止める、という非見識な行為に対して、いささかの不快感
も示されなかった李登輝氏にお詫びをするため台北にお訪ねし、ご夫妻に温かく迎えら
れて、半日以上をごいっしょに過ごして帰った。(続く)