野綾子さんが同行し、その詳細について、曾野綾子さんが「夜明けの新聞の匂い」を長
期連載している月刊誌「新潮45」8月号(7月18日発売)に「李登輝氏の靖国参拝」と題
して執筆していることをお伝えしました(8月15日発行、本誌第591号)。
曾野さんから本誌掲載へのご了承をいただきましたのでご紹介いたします。ただ、長
文ですので3回に分けてご紹介します。今日が最終回です。 (編集部)
李登輝氏の靖国参拝【下】
作家 曾野 綾子
李登輝氏の靖国参拝は六月七日、午前十時頃だと知らされた。「朝早い方がマスコミ
とも無縁に静かにお参りになれますね」と私は知らせて来てくれた人に言ったが、「い
や、そうじゃないんです。李登輝さんは、ちゃんと自分の態度をマスコミにも示して、
個人の参拝をしたいと言われているんです」という答えだったので、私は小説家的反応
と政治家としての姿勢の違いを快く感じた。
私と夫が九時半近くホテルオークラに着くと、李登輝夫妻は既に記者会見中であった。
我々もそこで同行を許されたご挨拶をした。それが終ってから、夫妻は車で靖国神社ま
で移動され、私たちも自分の車で後を追った。
初め李登輝氏は、普通に拝殿の前で神式ではない礼拝の形を取るなどと言われていた
が、それは元国家元首には不可能なことであったろう。靖国神社側は玄関で待ち受けら
れ、そのまま私たちは応接室に通された。そこでお茶を頂いた時の李登輝氏の顔にも、
いつもの温かい笑顔はなかった。
それは苦痛に、或いはもしかしたら涙に耐えている表情に私には見えた。現代の男た
ちは平気で人前で泣く。しかし戦前の日本の男たちは、どんなことがあっても泣かない
ものであった。李登輝氏の兄上は、今でも、遺骨もない、墓もない。兄上の死の詳細は
今もってわからない。それは、もしかすると長い間、亡き父上にとってはむしろ一縷の
希望であったかもしれない。どこかで長男は生きているのではないか、という思いが父
上に、息子の死を信じさせなかったとしても不思議はない。だから位牌も墓も、父上は
作ろうとはされなかった。
兄が靖国に祭られているとわかったから、今度はどうしてもお参りに来なければなら
ない、と思った。仲のよい兄弟だったし、その決定は、李一家の家庭の個人的なもので
す、という意味のことを李登輝氏は記者会見の時も宮司さんにも繰り返された。それか
ら長い間、兄を祭ってくださっていてありがとうございました、という意味のお礼も言
われた。私でも同じことを言ったろうと思う。そう言う他にどういう言葉があったろう
か。それは悲痛な言葉であった。
私たちはいわゆる昇殿参拝を許された。渡り廊下で用意されたお祓いを受けた。そし
て畳敷きの拝殿で、李登輝夫妻は立ったまま、亡き兄の存在と対面した。
「やっと来ました」だったか「これでうちに帰ってきてください」だったか、その思
いは計り知ることはできない。神社側が、静かな声で、このような順序でご拝礼くださ
いと、お辞儀や柏手を打つ回数を教えた。私にとってもそれはほっとすることだった。
キリスト教徒は、どのようにしたら神社で礼儀を失しないで済むのか、手立てを知らな
い。李登輝氏は静かにその通りに従われ、私たちも従った。
その後再び応接室に戻ると、そこには亡き方の名前、軍隊の階級、所属部隊などを書
いた「証明書」のようなものが用意されていた。李一家の長男の、不明だった死の経緯、
長い長い戦後はこうして終った。
外へ出るとホテルオークラとはまた別の新聞記者の一団が李登輝氏を取り囲んだ。私
たちは少し離れたところで待っていた。李登輝氏の車が移動すると、私のところへもマ
スコミの一群が来た。
「神式の礼拝をしたんでしょうか」
「玉串料は渡しましたか」
という質問も聞こえた。
およそ宗教や信仰を知らない記者たちであった。私は今までどれだけイスラム教のモ
スクに行ったことだろう。行けば必ずまず履物を脱いで裸足になり、女性だから長い上
着を羽織りフードで髪を隠す。異教徒はモスクの手洗いの場所では手を洗わないという
約束、モスクの内部の床には坐らないという礼儀を守る。だからと言って、私がイスラ
ム教になったことがあるか。お寺や神社に行けば、お賽銭箱にもお金を入れるし、必要
とあれば、何と書いていいかわからないので白いままの封筒に志を入れた金一封を出す
こともある。だからと言って私が仏教徒や神道になったわけではない。そうしたことを
何も認識していない記者たちが、口々にそうした浅はかな質問を繰り返した。
中国は果たして李登輝氏の靖国参拝を非難した。李登輝氏はA級戦犯を祭った靖国を
拝みに行ったのではない。そこに兄がいたとわかったから会いに行ったのだ。再会の場
所が上野駅でも靖国神社でも、氏にとっては同じだったろうと思う。それを政治に結び
つけて、息子であり、兄である人の死を悼む人の心を踏みにじる。中国とはそういう国
なのだ。
ホテルに戻ると夫人が私にお土産をくださった。中に台湾のみごとなカラスミが入っ
ていた。夫はそれをうちでは食べずにアフリカヘ持って行けと言った。靖国参拝の翌日、
六月八日に私は一行十八人でアフリカヘ発った。
マダガスカルの奥地、モザンビーク海峡に面したモロンダバという町から四駆で八時
間、地図にさえ載っていないベレーブという寒村にできた小学校の完成を確認するため
に埃に塗れて辿り着いた夜、薄暗い電灯の元で私たち十八人の日本人は、この思いがけ
ない珍味を一緒に味わったのである。 (二〇〇七・七・五)