◆知られざる戦前の高級住宅街
台北市の地図を開くと、数多くの公園が確認できる。現在、「林森公園」と呼ばれている緑地もその一つ。日本統治時代、ここには三橋町共同墓地が設けられていた。一帯は「三板橋(さんばんきょう)」の名で呼ばれ、第7代台湾総督・明石元二郎や第3代台湾総督・乃木希典(まれすけ)の母、壽子(ひさこ)の墓地があった。
今回取り上げるのは、この緑地の南側である。終戦まで「大正町」と呼ばれ、当時、「内地人」と呼ばれていた日本本土出身者とその子孫たちが暮らし、高級住宅街として名をはせた場所である。
開発を手掛けたのは、木村泰治(きむらたいじ)という人物だった。秋田県大館市の出身で、文豪・二葉亭四迷の勧めで新聞記者となり、『台湾日報』の主筆だった内藤湖南のつてを頼り、領台間もない1897(明治30)年の暮れに台湾へと渡っている。
木村泰治は記者時代は児玉源太郎や後藤新平、新渡戸稲造と親交があり、実業界に転じてからは、台湾各地の都市計画に関わりをもった。(福島岳温泉木村家提供)
その後、『台湾日日新報』の編集長となり、幅広く取材活動を行なったが、後に「台湾土地建物会社」の設立に携わり、実業界に入った。同社は基隆(キールン)港や高雄新市街の造成など、数々の事業を手掛けたが、その多くが木村の手によるものだったとされる。1937(昭和12)年には台北商工会議所の設立に奔走し、会頭にも就任している。
◆新領土・台湾に永住する意思を持たせる
筆者は取材の中で、木村の自叙伝『地天老人一代記』という書籍を入手した。ここには「町づくりの時代」という項目があり、大正町界隈の開発秘話が記されている。
1911(明治44)年8月26日、台湾は未曽有の暴風雨に見舞われ、南部に甚大な被害が出た。島の南北を結ぶ縦貫鉄道が寸断されたほか、台北でも川が氾濫し、街が水没した。
台湾総督府は復旧に尽力したが、そこに木村が率いた台湾土地建物会社が関わっていた。そして、これが、大正町が整備される契機となった。
当時、日本人居住区は整備されておらず、内地人は台湾の人たちと雑居する形で生活していた。当然ながら、衛生観念や生活習慣の相違があり、多くの場合、劣悪な環境下にあった。実際、マラリアをはじめとする疫病がまん延しており、人々は亜熱帯特有の病に常にさらされていた。「新天地」とは名ばかりのものだった。
また、当時は治安も安定せず、圧倒的少数派である日本本土出身者は、等しく不安を抱えていた。そのため、台湾で一旗揚げたらすぐに郷里に戻ろうと考える者が大半を占め、台湾に定住する意思を持つ者は皆無に近かった。
こういった状況を木村は憂いた。そして、台湾の地に人々が永住したくなるような住宅地を整備しようと決意する。1912(大正元)年、台北市北東部の空き地を10万坪購入した。
木村の行動は早かった。幸い、台湾総督府や財界の支援も受けられ、新しい住宅地の整備に取り掛かった。特に総督府民政長官を務め、離任後も台湾の政財界に大きな影響力を持っていた後藤新平は、もともと木村に近い考えを持っていたと言われている。後藤の在任中、新聞記者だった木村は自らの思いを何度となく伝え、その必要性を説いたと言う。
◆新興住宅街「大正町」の誕生
大正町の街路は、南北を結ぶ道路に対し、路地が直角に交差する格子状のものだった。路地は縦貫鉄道の線路から北に向かって一条通り、二条通り、三条通り・・・と名付けられた。これは木村自身が地図上に線を引いたものと言われている。
中心を走る大通りは「大正町通り(現在の林森北路)」と呼ばれた。また、路地は「四条通り」だけがやや太い道路だった(現在の長安東路)。2本の道路の交差点には日本聖公会の教会があった。これは現在もその姿を留め、台北市が指定する史蹟になっている。
住宅は間取りなどに一定の基準が設けられ、特に、水回りの管理が徹底されていた。街路樹も植えられ、排水溝の整備も重視された。
この住宅地は評判が評判を生み、入居希望者が殺到したという。台湾総督府の官吏や財界人が多かったが、後には「内地式の暮らしを受け入れること」を条件とし、台湾人や外国人も居住が許された。俳優の故・岡田真澄、E.H.エリック兄弟も幼少期をデンマーク人の母とこの地で過ごしている。
◆敗戦とともに消滅した大正町と今
敗戦によって日本人が台湾を離れ、中華民国政府の統治下に入ると、「大正町」の呼称は消滅した。日本人が所有した財産は、公私を問わず、敵性遺産として中華民国国民党政府に接収された。大正町の住宅も中国から渡ってきた官吏などの住居としてあてがわれた。
その後、林森北路界隈は歓楽街としての名が広がっていく。とりわけ日本人ビジネスマンが集う場所として知られていった。これによって、地域を取り巻く様相も変化した。現在、木造平屋の家屋は大半が建て替えられ、ほとんど残っていない。
しかし、日本統治時代に付けられていた路地の名称は健在である。これはあくまでも通称であり、正式な地名ではないが、現在も「五條通(旧・五条通り)」や「七條通(同・七条通り)」など、日本統治時代の名称が中国語表記・中国語読みで用いられている。
◆関東大震災と上北沢
木村泰治が大正町を手掛けてから約10年の歳月が過ぎた1923(大正12)年9月1日、首都圏を関東大震災が襲った。直後に組閣された第二次山本権兵衛内閣は、27日に帝都復興院を設けた。総裁にはかつて台湾総督府民政長官を務めた後藤新平が内務大臣を兼務する形で着任した。
この時、木村は旧知の仲とも言える後藤新平から連絡を受けた。そして、台湾で得た富を手にして東京へ赴いた。自身が率いる第一土地建物会社により、台北市大正町に続く新しい住宅地の造成を決意したのである。木村が選んだのは、上北沢であった。まもなく一帯の整備が始まったが、関東大震災後の復興計画と重なっていたこともあり、上北沢の住宅街には様々な試みが盛り込まれていた。
中でも、上北沢の道路配置に注目してみたい。大正町と同様、地図を見ると、どちらも主軸となる道路を設け、両側に路地を配列している。つまり、「肋骨(ろっこつ)」のように並んだ道路配置が見て取れる。
格子状の区画は、日本統治下の台湾ではよく見られる。亜熱帯に多い疫病のまん延を防ぎ、風通しと日当たりを考慮したためだが、大通りが南北を結び、そこに路地が直角に交わる大正町に対し、上北沢は若干、様相が異なる。こちらは中心線となる大通りが西に傾き、路地も斜めに交差しているのである。
同時に、上北沢は資金が台湾から持ち込まれていることにも注目したい。つまり、大正町をはじめとする開発事業で得た利益が、首都・東京に投入されたのである。
日本が台湾に設けた建造物やインフラ基盤はよく知られるが、戦前に台湾の企業が日本本土に投資し、造成した住宅街というのは他に例を見ない。そういった部分から見つめてみると、また異なった表情の上北沢が浮かび上がる。
なお、木村泰治と台湾土地建物会社について研究している南華大学の陳正哲教授は、上北沢そのものを歴史ある文化遺産として捉え、後代に伝えていくことの意義を説く。そして、「生活遺産」という表現を用い、日台ともに先人たちが遺したものを見つめ、記録していくべきではないかと、語っている。
◆桜並木にも歴史がある
現在、上北沢は桜並木の美しさで知られている。実は、木村泰治は台湾の大正町造成の際に、中心となる道路に桜を植えた。「日本人が日本人らしく暮らせる街」を目指して景観整備を意識したものだったが、ソメイヨシノは亜熱帯の台湾の気候に合わず、枯れてしまった。
台湾の地でかなわなかった理想を木村は上北沢で実現した。さらに後、木村は再びソメイヨシノを台湾に持ち込んでいる。大正町での失敗を踏まえ、海抜の高い台北近郊の草山(現・陽明山)に苗を植えた。これは定着し、現在、陽明山は台湾有数の桜の名所となっている。
最後に、木村のもう一つの顔についても触れておきたい。木村は愛犬家として知られ、台湾固有種である台湾クロイヌ(臺灣黒狗)についての論考を残しているほか、忠犬ハチ公の血統を解明したことや、銅像製作への出資など、深い関わりがある。
戦前の紳士録などを見ると、木村は「文人のような雰囲気の持ち主」という記述に出会う。都市開発の功績のみならず、犬をこよなく愛したという木村の人柄を知ると、より一層、興味がかき立てられる。
さらに、戦後は台湾からの引揚者が残してきた私有財産の補償を求める請願運動を起こし、様々な働きかけをした。そういった側面も含め、一人の「人物」から日台関係史を考察すると、台湾はより魅力的な表情を見せてくれる。
現在、上北沢と陽明山(旧・草山)では、美しい桜が花をつけ、シーズンを迎えれば、行楽客が大挙押し寄せる。木村は今、天国からどのような面持ちでその様子を眺めているのだろうか。
◇ ◇ ◇
片倉佳史(かたくら・よしふみ)台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。
1969年、神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪〜日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)等。
オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店 http://katakura.net/