*読みやすさを考慮し、小見出しは本誌編集部で付したことをお断りします。
◆東台湾開発のシンボル「吉野村」
2015年に台湾でヒットした映画『湾生回家』は、皆さんはご覧になりましたか? 日本統治下の台湾で生まれた日本人のこと湾生と呼び、彼らの激動人生を振り返ったドキュメンタリーです。
湾生たちは、日本が日清戦争に勝利し台湾を接収して間もなく、移民募集の呼びかけに応じて日本での財産を棄てて台湾へ渡りました。そして、荒れ地にバラックというひどい状況を与えられながらも、日本人移民たちは真面目に荒れ地を耕し、首狩り族の襲来やマラリアなどの伝染病という困難も乗り越えて、少しずつ生活の基盤を台湾で築きました。そうした日本人村は、かつて台湾各地にありましたが、特に現在の花蓮県を含む東台湾に多くありました。
その中の一つに吉野村というのがあります。吉野村は(現在は「吉安郷」という名前になっています)、徳島県の吉野川流域の人々が集まっていた集落だったことから名付けられました。一説によると、度重なる吉野川の氾濫に困っていた人々が、新天地を求めて台湾への移民募集に応じたということです。
その集落の守り神として建てられたお寺が「吉野布教所」、現在の「吉安慶修院」です。真言宗高野派で本尊の弘法大師像は日本から取り寄せたものでした。終戦によって本尊は日本に戻されましたが、1997年に国家第三級古蹟に指定されたのを機に、再び台湾の本堂へ戻ってきたそうです。境内には本尊のほか、四国八十八カ所霊場を模した八十八体の石仏、不動明王像、百度石などもあり、日本統治時代当時の写真や歴史的意義を記した展示もあります。
東台湾は日本時代に入ってから本格的に開発が進められました。そのシンボルのひとつが吉野村です。吉野村ができる前までは、原住民(アミ族)の数戸があっただけでしたが、吉野村ができてからは、まるでかつての江戸の町さながらの様相にまで発展したといいます。
このような「王道楽土」としてのユートピアは、日本が占領・統治したアジア東方部で数々生まれ、戦乱や内戦から逃れてきた人々の駆け込み寺となりました。しかし、そうした美談も戦後はマスコミによって「虐殺」や「三光」などというウソで隠蔽され、日本の「戦争犯罪」として流布されるようになってしまいました。情報操作が難しいネット時代の今こそが、真実を究明するいいチャンスです。
◆若者世代を中心に台湾で多くの感動を呼んだ映画『湾生回家』
日本統治時代、吉野村の日本人たちはこの吉野布教所を心の支えに、厳しい環境の中で生き抜いてきました。東台湾への移民について語る際、最も重要な登場人物がいます。以前のメルマガでもご紹介した賀田金三郎(かだ・きんざぶろう)です。
彼は大倉喜八郎の大倉組の台湾支社総支配人として台湾へ渡り、その後賀田組を設立し、東台湾の鉄道、道路の敷設、銀行、郵便事業の創設、学校や病院などの建設と、あらゆるインフラ建設に貢献した人です。しかも、それら事業はすべて民間事業として行いました。賀田の死後、後藤新平に「賀田君の働きがなければ、台湾の近代化は成し得なかった」と述べさせたほど、彼の功績は大きいものでした。
そんな日本統治時代の東台湾で生き抜いてきた日本人たちのことについて描いた映画『湾生回家』は、日本では岩波ホールや映画祭で上映された程度で、あまり話題にはなりませんでしたが、台湾では若者世代を中心に多くの感動を呼びました。日本統治時代を知らない台湾の多くの若者たちが、この映画を見て涙を流したといいます。
そうした日台の交流秘話も、生き証人として歴史を語り継いできた戦中世代がいなくなりつつある今、だんだんと消え去りつつあります。書物や資料での保存も乏しく、すでに消失して探しようのない過去もたくさんあります。
◆七五三や土俵復元の相撲イベントで日本文化を再評価
東日本大震災以来、日台間に流れる歴史と絆の深さにスポットがあてられ、日台の若者の間にそうした認識が広がってからというもの、互いに若者の観光客が増加の一途をたどり、より良好な友好関係となっている今、日台の各自治体も互いを意識したイベントや友好都市協定締結などを行っています。
そのひとつとして、今回の花蓮件文化局による七五三イベントがありました。建立101周年を迎える慶修院(かつての吉野布教所)で、和服を着て寺院を訪れた子供たちに「千歳飴」が贈られたほか、日本民謡や和楽器のパフォーマンスが披露されました。花蓮県の粋な図らいですね。
桃園市では今年9月に日本統治時代の土俵を復元し、11月18日には台湾人に相撲をよく知ってもらうために日本と台湾のマスコットキャラクターが相撲で対決するというイベントを開催しました。日本からは千葉の「チーバくん」や成田市の「うなりくん」などが参加したそうです。
鄭文燦・桃園市長は、「日本で900年以上も前から発展し続けた相撲は力と知恵を融合させたスポーツだ」と紹介し、来年7月に桃園市で50を超える国々の選手が集まって世界相撲選手権大会が開かれることを告知、「ぜひ観戦に訪れて相撲や日本文化の魅力に触れてほしい」と述べました。
外国都市の市長が日本文化の魅力をここまで力説するというのも、台湾ならではのことでしょう。台湾で日本文化の再発見、再評価と発信が大きなブームとなっています。
◆広島県呉市の台湾人「呉さん」への呼び掛け
逆に日本でも、なかなかユニークな台湾人向けのイベントがありました。広島県の呉市が、呉という名字を持つ台湾人に、呉市の観光大使にならないかと呼びかけるイベントです。これは台湾のニュースでも大きく報道されたほど、台湾では話題になっていました。
名字が呉で台湾在住なら誰でも応募ができ、当選者には3泊4日の呉市観光旅行が贈られます。観光大使としての使命は、呉市から発せられる情報を自身のFacebookやインスタなどを駆使して台湾人に向けてどんどん宣伝するというもの。呉市は軍港で知られる地域であり、気候や街のあり方が基隆に似ていると台湾では言われています。
日台が互いに積極的に交流を促進しようとするこうしたイベントの数々によって、若者世代の相互理解が深まることで、かつての日台間に流れる歴史にも関心がいき、過去を知った上で日台が同じ未来予想図を描いていけたら、こんな素晴らしいことはありません。
東日本大震災のとき、台湾の民間から集まった義援金は200億円とも言われています。赤十字で公表された額は200億円ですが、さらに被災地へ直接持っていた義援金などを含めると、さらに大きな額になっていたはずです。ここが、台湾と中韓の違う点です。台湾の心性がここにあらわれています。
◆台湾と中国・韓国の決定的な心性の違い
人間不信の中韓では、いわゆる「辛災楽禍」、つまり他人の不幸を喜ぶ心性があります。インド洋の大津波では、中国のネットの書き込みで「これでインドは中国に追いつけなくなった」という声が溢れ、四川大地震で大勢の犠牲者が出れば、「中国人は多すぎるから死んでちょうどいい」などと暴言が続出しました。
2011年9月に韓国で開催されたプロサッカー試合(アジア・チャンピオンズリーグ)では、日本のセレッソ大阪と韓国の全北現代の試合において、韓国側の観客スタンドに「日本の大地震をお祝いします」という横断幕が掲げられたことが日本の国会でも話題になりました。
こうしたことは、中国四千年の歴史の中国人、その属国であり続けた韓国人に染み付いた民族性です。内ゲバや内訌に明け暮れ、易姓革命で政権交代を繰り返してきた彼らの性です。
一方の台湾ですが、日本が台湾を領有した10年あまりしか経っていなかった当時、日露戦争への戦費の義援金を募ったところ、当時の「日日新聞」によれば、多額の寄付が集まった都市の1位は東京、2位は大阪、3位は台湾でした。
また、4代目台湾総督の児玉源太郎の没後、江ノ島にその名を冠した児玉神社を建立するにあたり募金を行ったところ、わずか2週間でその建立費のほとんどが台湾から集まり、大正10年(1921年)に建立されるに至りました。設置されている狛犬も、台湾の有志から贈られたものです。2006年には李登輝元総統が揮毫した扁額が贈られました。
これが台湾人の心性です。その根本的理由は、やはり台湾人と日本人は、もともと似ているところが多かったというのが私の持論です。島国としての環境が育んだ類似性かもしれません。いまだ解明されていない文化的相似点については、まだまだ研究の余地がありますが、陸、海、島で暮らす人々はそれぞれエトスが異なるのです。
中華大陸と陸続きの朝鮮半島と、海によって大陸と隔絶された島国の台湾で、民族性から日本に対する感覚まで180度違うのも、そうした地理的環境が大きく作用しているのではないかと思います。