故許光輝氏を悼む  廣瀬 勝(日本李登輝友の会理事・熊本県支部長)

 2018年6月22日、李登輝元総統は大東亜戦争で戦死した台湾出身戦歿者を追悼し、自ら揮毫された「為國作見證」の文字を刻んだ慰霊碑の除幕式に臨席されるため、曾文恵夫人を伴い、沖縄の那覇空港に到着されました。

 空港には、謝長廷・台北駐日経済文化代表処代表をはじめ招聘した本会の渡辺利夫・会長や辻井正房・副会長、同じく招聘元となった日本台湾平和基金会の西田健次郎・理事長など多くの人々が出迎えました。

 総統を退任されてから9度目、2016年の石垣ご訪問に続くご来日で、沖縄ご訪問は2008年9月以来2度目となりましたが、これが最後のご来日となりました。

 6月24日、摩文仁丘の平和記念公園にて行われた除幕式に臨み、つつがなく斎行されました。

 この李登輝元総統ご揮毫による台湾出身戦歿者の慰霊碑建立を発案されたのは、台湾出身で、摩文仁丘の「台湾之塔」建立も発案して実現した許光輝(きょ・みつてる)氏でした。

 昨年11月24日、大動脈解離のため急逝されました。本誌でも許光輝氏の訃報をお伝えしましたが、まだ57歳という若さでした。

 本会理事で熊本県支部長の廣瀬勝(ひろせ・まさる)は、これまで10年ほど許光輝氏とともに活動してきたことから、許氏がこれまで果たされた事績を知らしめたいと、追悼文をご寄稿いただきました。

 いささか長いのですがここに全文を掲載し、改めて許光輝氏の高い志に根差した事績に触れ、追悼の意を表したいと思います。 —————————————————————————————–故許光輝氏を悼む

                            廣瀬 勝(日本李登輝友の会理事・熊本県支部長)

◆献身的で無欲な姿勢

 まだ頭の中が空白の状態でいる。11月24日午後1時。許光輝(きょ・みつてる)氏の訃報を耳にした瞬間から今日までが止まっている。日台交流という私の人生の揺るぎのないテーマがそのまま停止している。

 10年ほど前のこと。沖縄・摩文仁が丘の平和記念公園に台湾人慰霊碑が存在しないため、その建立を目指して活動をしている台湾人がいるのでJR熊本駅で会わないかと、ある方に紹介されて会ったのが最初だった。格別、強烈な印象もなく、寧ろ大人しい大柄な男だったが、できるだけ多くの日本人に台湾人慰霊碑の建立に向けて共鳴を得たいというエネルギーを感じることができた。

 その後、2度ほど私が経営する温泉施設に宿泊したものの、次第にその献身的で無欲な姿勢にほだされ、3回目以降は料金を請求することを止めた。その後、7年に亘り16回の宿泊を重ねる間に、彼のこれまでの足跡を聞く機会に恵まれた。

 1966年、台湾の澎湖島・馬公で生まれ、大学を卒業後、琉球大学大学院で修士、金沢大学大学院で博士課程を終えて台湾へ戻り、警察大学の助教授となった。その後、休職して生活の場所を台北、シンガポールから沖縄へ移した。

 1990年代は、日本統治時代の1930年に台南の烏山頭ダムを建設した日本人技師八田與一氏の妻、八田外代樹の銅像を現地の記念公園内に建立する活動に尽力し、当時の国民党総統馬英九氏を除幕式に招くに至った。さらに、小学館の出版する『学習まんが八田輿一』の監修にあたり、その名を残している。

 それからは、沖縄県摩文仁が丘の平和記念公園の中に日本全国の都道府県別の慰霊塔に加え、韓国人の慰霊塔が存在する一方で、同じ戦争で亡くなった台湾人慰霊碑が存在しないことに深い疑問を抱き、その建立へ向けて活動を始めた。

◆「台湾之塔」建立のために東奔西走

 私も先の大戦で3万人を超える台湾人が尊い命を落とした事実は認識していた。それだけに、同公園内に台湾人慰霊碑だけが存在しないことは極めて不自然であると同時に、その不公平性に怒りに近い感情を覚えた。また、その時まで台湾人慰霊碑のないことを知らなかった自分を心底から恥じた。

 戦後30年を経過して広大な敷地内に韓国人慰霊碑が建立されたことと比べれば、戦後68年を経て未だに慰霊碑はおろか土地さえも供与されていない冷厳な現実に、許光輝氏と同じ意欲が湧き上がってきた。「台湾人慰霊塔をすぐにでもここ沖縄平和祈念公園に建立しなければならない」と。

 土地の問題に関しては許光輝氏のひたむきな情熱と日本台湾平和基金会理事であり、彼の親友であるN氏の懸命な努力により、沖縄翼友会から「空華の塔」の所有する土地の一部を借用することができた。

 その経緯には感銘を受けるエピソードがあり、産経新聞の川瀬弘至・那覇支局長の記事「沖縄考─摩文仁の丘に並んだ台湾之塔」に詳細が記されている。(註1)

 そして、大きなひとつの山を越えたものの、慰霊碑建立の費用捻出が次の壁となり立ちふさがる。資金がない──さながら強迫観念に取り憑かれたように、2015年秋から翌年にかけ、本土と沖縄を東奔西走する彼の姿が私の記憶に鮮明に蘇ってくる。

 東京、大阪、福岡、熊本、そして沖縄。台湾側としては2・28事件関係者や華僑総会関係者。日本側としては民間の保守系団体幹部、指導者。また台湾との経済文化交流関係者等、際限なく彼は歩き回った。自分の可能性だけを信じて。その移動した時間と費やした労力は誠に凄まじいものがあり、やがてその努力が結実したのであろう。神戸に居住する長尾さんという旧日本陸軍軍人であられた篤志家が多額の寄付をされ、同じく旧日本陸軍軍属であられた楊馥成さんも続いて寄付をされた。それから多くの方から台湾人、日本人の国籍を問わず温かい浄財を寄贈して頂いた。

 しかしながら、それでも完全なる記念碑建立の費用の捻出までには至らず、工事関係者には随分と支払い猶予の時間を含めて寛大なるご対応を賜ったと先述のN氏は回顧する。

 そしてついに2016年6月25日、「台湾之塔」の除幕式を迎える。台湾人の御霊を慰霊する塔の完成は、大東亜戦争を戦い命を落とした日本人や韓国人に遅れること41年。彼らが等しく眠る同じ場所に安住の地を見つけることができたわけである。

 式典には、台湾政府関係者の蘇啓誠氏(台北駐日経済文化代表処那覇分処処長)も参列した。台湾団結連盟を代表して立法委員の周倪安氏、同じく時代力量立法委員の林昶佐氏。学界からは中央研究所の許文堂教授、報道機関としては民視のニュースキャスター鄭弘儀氏も講演に駆け付けた。

 台湾国内の親中派からは塔の建立に異論を唱える声もあったが、整然と式典は挙行され、日本台湾平和基金会の会長職を西田健次郎氏に譲り、副会長に退いた許光輝氏の胸には万感去来するものがあったことであろう。

◆李登輝元総統ご揮毫の慰霊碑建立に向け

 当時の私はこれで目標の全てが終了したと思い込んでいた。だが、彼の中ではそうではなかった。やはり「台湾民主化の父」と呼ばれる李登輝元総統のご揮毫をいただき、「台湾之塔」の隣にその記念碑を建立したいという意志を私に伝えた。

 余りにも唐突で壮大な行動目標に、私は日本李登輝友の会の会員でありながら「無理だから止めたほうがいい」と、彼に電話で長時間にわたり何度も話をした。

 そもそも、雲の上の存在であられる李登輝氏からしてみれば、私は2016年の5月30日に、熊本から元県立大津高校校長の白濱裕氏を団長とする表敬訪問団の一員としてお会いしただけの民間人であるに過ぎない。日台交流の重要性の認識は深いつもりであったが、この目標ばかりは回避したほうがいいと考えていた。案の定、公式ルートから本件に関し国際電話をして主旨を伝え要望したが断られた。同年12月のことである。

 しかしながら、その経緯を知り、彼は諦めるどころか再度私に催促した。「別のルートから交渉しては如何か?」と。しかも、大阪に行ってくれと私に依頼をした。何とも諦めの悪い奴だと思ったが、渋々彼の言う辻井正房氏(日本李登輝友の会副会長。当時は常務理事)に会うために現地へ行き、昼食をご馳走になりながら李登輝元総統の揮毫のお願いをした。

 2018年1月、奇跡が起こった。李登輝元総統がその案件を快諾されただけでなく、揮毫記念碑の除幕式に自ら参列したいとおっしゃられたのだ。

 辻井副会長からこの吉報を受け、すぐさま彼に伝えた。許光輝氏は電話の向こうで欣喜雀躍する様子であったが、すぐに前回と同じ壁に直面した。平和基金会の資金が底をついているのである。しかも時間がない。記念式典は同年の6月。どう思案しても募金活動には限界があり、再度泣きつき半分で辻井副会長に相談させて貰うと、本当に財務支援を了承してくださった。この已むに已まれぬ前後の事情を真剣に汲んでいただき、迅速に資金提供を賜った辻井副会長には無限の恩義を感じる。

 揮毫文は「為國作見證」。李登輝元総統が除幕式にて述べられた意味は次のとおりである。

「先人たちの行いは私たちが如何にして生きるべきかの道筋を示唆してくれている。命を以て私たちに歴史を指し示してくれている。また同時に、私たち後世の人間は先人たちが示してくれた道筋と教訓によって学び、選択することができる」

 戦火に斃れた先人の命の意味を深く咀嚼し、その上で意義のある未来を築くべしという意味を包含するお言葉であるように私は解釈した。

 2018年6月24日の除幕式には、李登輝元総統も酷暑の中を参列し、戦場で亡くなった実兄や友人を想起したのか、時々嗚咽を漏らしつつ祝辞を述べられた。台湾政府を代表して謝長廷大使も参列され、盛大な祝宴も同時に催されて成功裡に全てが終わった。

◆志賀哲太郎顕彰碑と軍艦松島遭難者慰霊祭

 許光輝氏の功績は、台湾之塔と李登輝元総統の揮毫記念碑建立に留まらない。しかし、紙面の制約がありその諸方面にわたる奮闘ぶりについては割愛し、私も参画した二つの事業の経緯だけをここに記す。

 日本統治時代に台湾の台中・大甲にて初等教育に尽力し、住民から「大甲の聖人」と尊称された熊本県出身の教育者志賀哲太郎。2016年2月26日、その熊本の志賀哲太郎顕彰会訪台団を初めて台中市大甲区役所まで導いたのが彼であった。それから、翌年の11月は同顕彰会と大甲区による現地での志賀哲太郎墓前合同慰霊祭、翌々年2月には益城町にての志賀哲太郎顕彰祈念会を開催し、大甲区公式訪問団を受け入れた。そして、2020年12月に志賀哲太郎の生誕地である益城町津森に、安倍晋三・前総理のご揮毫による顕彰碑が完成する。コロナ禍に在って挙行された除幕式。その全ての場面に彼の姿があった。

 二つめの事業が、彼の故郷である台湾澎湖島における「軍艦松島遭難者慰霊祭」である。東京、大阪、福岡の3方面から自衛隊退職者を中心とした総勢100名を超える大訪問団を現地へ招いた2018年9月23日、1908年(明治41年)4月30日に現地で爆沈した軍艦松島の慰霊祭を挙行。翌年11月には福岡県郷友連盟から20名前後の訪問団を招き、第2回の慰霊祭を行った。

 上記の二つの事業に関して共通する点は、志賀哲太郎墓前慰霊祭も軍艦松島慰霊祭も、戦後、台湾の現地住民の皆様が自主的に一貫して催行してきたことである。とりわけ澎湖島の200名を超える犠牲者を出した軍艦松島慰霊祭は、許光輝氏が教えてくれなければ、恥ずかしながら日本人は誰も知らないまま風化してゆくところであった。

 遅ればせながら深く彼に感謝したい。

 そして、改めて台中市大甲区の皆様、澎湖島馬公市の皆様に感謝の意を表したいと想う。

◆望安島で医療に従事した日本人、佐藤乾氏の遺族探し

 実は、生前の許光輝氏が私に直接的に依頼をされて未だに終えていない宿題がある。元会津藩医、佐藤乾氏の遺族探しの件である。

 孤島の医療活動において、佐藤乾氏はおそらく近代史の中で傑出した人物であると思われる。

 福島県会津若松市出身の会津藩医であった佐藤乾氏は、明治期から昭和初期にかけて36年間、台湾澎湖諸島のひとつ望安島で地元住民の医療活動に従事し、1940年(昭和15年)に現地で生涯を終えた。電気や水道がなく、本島の台湾からも遠く離れた壮絶な生活環境にあった望安島。医療物資も欠乏する場所で妻と子供を養い、島民の健康を守ろうとした博愛精神と彼の静かな情熱は、後世の日本人が語り継ぐべき先人であると、常に許光輝氏は熱く語っていた。そのとおりだと思う。

 6年ほど前に福島民報社東京支社を訪問し、H記者に許光輝氏の意思を伝え、遺族探しをしている記事を掲載して貰った。が、残念なことにご遺族に感謝の気持ちを伝えられないまま彼はこの世を去ってしまった。本件の詳細に関しては先述のH記者の記事がある。ご一読願いたい。(註2)

◆長い空白を経て開いた御会葬御礼

「廣瀬さん、ここは突破するしかない」

 彼が「台湾之塔」と李登輝元総統揮毫記念碑建立のプロセスで、私によく言った言葉である。無理を承知でお願いされる立場だったが、何の権力も資金もない男に懇願する彼もさぞかし不安だったことであろう。彼が解決をめざした台湾と日本の間にある諸問題とその目標には、私と乖離したものもあった。それでも「突破するしかない」という彼の激励の言葉が今を生きる私には重い。これから何をすればいいのか。

 N氏に連れられて彼の墓前に行き、大きな額縁に入った顔と対面したのが昨年の12月6日。バカ野郎と言う前に喉が詰まり涙が溢れだした。腕が震え拳が震えた。そして天を仰いだ。

 奥様と面会してしばらく話をするうちに、彼がほとんど出張目的や外出目的を語らずに飛び出して行ったことを知り、身につまされた。自分の妻も彼女と同じ気持ちかもしれないと考え心の中で詫びた。

 悄然として彼の自宅を出て、忘れていたままの御会葬御礼を開封したのは年も明け、1月も終わろうとする日だった。空白時間は長かった。そこに先述の自問した答えを見つけたような気がしている。

「生前の夫は情熱と努力がいっぱいで台湾と日本の交流に尽くし沢山の立派な功績を残してくれました これからは夫の情熱を引き継いで頂けますと大変幸いです」(原文抜粋)

 私にはまだ何も見えない明日だが、この言葉を支えに手探りをしながら少しずつ動き出したいと考えている。

註1:摩文仁の丘に並んだ台湾之塔  【産経新聞「沖縄考」:2020年12月1日】   https://special.sankei.com/a/society/article/20201201/0001.html

註2:台湾の離島医療に尽力 会津人の軍医故佐藤乾さん  【福島民報:2018年11月6日】*日本李登輝友の会ホームページより   http://www.ritouki.jp/index.php/info/20181124/

※この記事はメルマガ「日台共栄」のバックナンバーです。