力量─リーダーとしての決断力と現場主義」と題して特別寄稿されていた。
今年1月末、台湾で李前総統の「壹週刊」発言問題が惹起したとき、作家の井沢元彦
氏と「SAPIO」誌で対談した李氏は「日本の雑誌でも語ったことですが、私が考え
る指導者の条件には5つあります。第一には、自分なりの信仰を持つこと。私はクリス
チャンだから、判断に迷った場合も最終的には『公義の精神』と『愛』という2つを原
則に決断をしてきました」(2007年2月28日発行「SAPIO」誌、本誌)と述べられて
いたが、この「日本の雑誌」とは「Voice」2007年2月号のことで、「指導者の条件─
『総統』として私が心掛けたこと」と題して寄稿されていた。
今号より3回にわたって紹介する「指導者の力量」はそれに続く指導者論だ。日本訪問
時の感想や安倍政権の問題点、政治家と官僚の関係、台湾が進むべき方向などについて、
具体的に述べられている。
なお、本文は著作権者および出版社の許諾を得て掲載をしていますので、他への転載
および送信を禁止します。 (編集部)
■PHP研究所「Voice」
http://www.php.co.jp/magazine/voice/
特別寄稿 指導者の力量─リーダーとしての決断力と現場主義(1)
李 登輝(前台湾総統)
■人事を決める冷徹な心
五月三十日より日本に赴き、十日間にわたる文化・学術交流ならびに「奥の細道」探
訪の旅を楽しんだ。今回の旅は、私にとって一生の思い出になるだろう。
なかでも「後藤新平の会」が主催する後藤新平賞の第一回受賞の光栄に浴したことは、
無上の栄誉である。あとに述べるように後藤新平は、私にとって偉大な精神的導きの師
である。このような賞が創設され、後藤新平という偉大な人間像が認識されるようにな
ったことは、彼のもつ強い精神性が国家や社会にとって、いまこそ必要とされているた
めであるように思う。
一方、「奥の細道」を訪ねる旅では、日本文化の特徴である、生活における自然との
調和を実感させられた。高い精神性と美を尊ぶ心の混合体こそ、まさに日本人の生活で
あり、日本の文化そのものである。有史以来、日本は大陸および西方などから滔々と流
れ込む変化の大波のなかで、驚異的な進歩を遂げつづけた。そして一度もそれらの奔流
にのみ込まれることなく、独自の伝統を立派に築き上げた。この優れた文化が、進歩し
た社会のなかでいまだに失われていないのは、日本の素晴らしさの一つである。
外来の文化を巧みに取り入れながら、自らにとってより便利で都合のよいかたちに作
り変えていく。このような文化の築き上げ方は、一国の成長・発展にとって非常に重要
である。その天賦の才に恵まれた日本人は、そう簡単に日本的精神や伝統を捨て去るは
ずがないと、私は固く信じている。
ただ、このような素晴らしい文化と精神性をもつ日本は、国家の状況としては、いま
きわめて大変な立場にある。二〇〇七〜二〇〇八年にかけての東アジアは、激動の季節
を迎える。韓国、台湾、オーストラリアで大統領や総統、首相を決める選挙が行なわれ、
大陸中国、北朝鮮、ベトナムの三つの共産党国家でも党内上層部人事の再調整がなされ
る。東アジア各国では内部権力が再分配され、外交よりも内政に力を注ぐ時期となり、
同時に準備と転換の年になる。
そうしたなか日本は東アジアをリードする生命力と創造力を発揮することが求められ
るが、七月下旬の参議院選挙で安倍政権は大敗し、政治状況がきわめて不安定化してし
まった。今回大勝した民主党の小沢一郎代表については、政権を握ることだけが目的で
あるかのように感じられる。これでは大陸中国をはじめ、諸外国に付け入る隙を与える
ばかりである。まずは、国全体が静かな安定した状態になることをめざさなければなら
ないだろう。
今回敗れはしたが、私は安倍総理の政治姿勢や価値観については高く評価している。
これからの日本が向かうべきは、教育を徹底的に改革することであり、これは国民のア
イデンティティを高めるうえで何よりも重要である。さらには国家安全保障会議を創設
し、憲法を改正して安全保障体制を強化する。そうして日本は初めて「普通の国」にな
れる。安倍総理は日本をそのような方向に導こうとしている。これはまったく正しい。
ただ問題は、人事を掌握できていないことである。安倍内閣の閣僚からさまざまなス
キャンダルが出てくるのは、組閣の際に徹底的に調査していないからである。
人事選考について、かつて私の上司であった蒋経国総統から教えられたのが、「奥さ
んを見なさい」というものである。奥さんの行動や姿勢に問題が多いと、必ず主人にも
問題が生じる。主人が汚職をしたり堕落する場合、多くの場合は奥さんが悪い影響を与
えているという。非常に道理があると納得した。
また私は信仰をもつ人を大事にしている。指導者の条件としてまず初めに挙げたいの
は信仰である。それがどんな宗教であれ、人間は信仰があって初めて強い信念をもつこ
とができる。信仰はフィロソフィー(哲学)と言い換えてもよいかもしれない。安倍総
理を取り巻く首脳陣のなかには、奥さんに問題が多い人や、フィロソフィーのない人が
多いのではないか。そのため、ミスや不祥事が続き、結果としてトップが苦労すること
になっているのだ。
人事で苦労した指導者といえば、明の皇帝・朱元璋もその一人である。易姓革命を成
し遂げ皇帝になるに際して、それまで彼を支援してきた人間たちを取り立てた。しかし
それらの人々が汚職などの不正を働き、政権は大きく揺らぐことになる。彼はおそらく、
革命を成し遂げる以上の苦労をしたはずだ。
安倍総理も人事で同じような苦労をした。総理は育ちのよい“お坊ちゃん”なので、
情けが深く、つい妥協もしやすいのかもしれない。だが人事を決定するにあたっては、
冷徹な心で臨むことが必要である。
私についていえば、私が総統になっていちばん悔しい思いをしたのは、ほかならぬ私
の親戚たちだろう。十二年間も総統を務めながら、一人として地位に就かせなかった。
トップに立つ人間が親戚を重要ポストに就けるのは、アジアでは常識である。だが私は、
あえてこれに逆らったのである。
■官僚が阻む日本の創造性
もう一つ、日本の生命力と創造性の発揮を阻んでいるのが、官僚の存在である。たと
えば外務省はチャイナスクールにより、旧態依然とした考え方からまったく抜け出せず
にいる。今回の私の訪日にあたっても、外務省の官僚のなかには大陸中国との関係を慮
って難色を示す者がいたそうだ。だがすでに大陸中国の上層部が、私の訪日に対して強
いプレッシャーをかけてくることはない。安倍総理も麻生大臣も、そのことはわかって
いる。チャイナスクールだけ、そのことがわかっていないようだった。彼らは状況の変
化を把握しようとしないのだ。
また官僚は、新しい提案については「法律上問題がある」としかいわない。その法律
がそれこそ百年前につくられたもので、「時々刻々と時代状況は変化している」とこち
らが主張しても、頑として認めない。
戦後の日本は、このような考え方をする官僚がほぼすべてを司ってきたという印象で
ある。これだと法律に従って動くだけで、法律にない新たなことはなかなか生まれてこ
ない。これまで日本は発展を遂げてきたが、今後のさらなる繁栄は阻害されてしまう。
官僚のそのような姿勢は、現場を知らないことにもよる。日本の知人から聞いた話だ
が、日本の学校は南向きに校舎を建てることが法律で定められているという。だが南向
きの校舎は、北海道ならよくても、沖縄だと夏は暑くて大変だ。北向きにしたいと訴え
ても、官僚は「法律で決められたことだからダメだ」という。おかげで沖縄の生徒や先
生たちは、かんかん照りのなか、汗だくで授業をやっているという。中央にいて法律し
か見ていないから、現場の人間に思いが至らないのだ。
私は台湾で官僚を経験してきたが、つねに心掛けていたのは現場に行くことである。
三十歳ごろだったが、官僚として最初に赴任した雲林県では、農村の人々が本当にひ
どい生活を送っていた。茅で覆ったみすぼらしい家に住み、そこに牛など動物も住んで
いる。おかずは芋しかなく、水道もない。そんな暮らしを見て気の毒になり、大規模な
土地整理を実施することを決意した。土地整理を行なって土地を農民に分配し、その後、
豚小屋をつくって一戸につき一〇〇頭の豚を飼わせ、その隣に住居をつくって住まわせ
たのである。
政府から台北市長に任命された際にも、私は農家を歩き回った。台北市郊外の山の上
では花や果物、お茶の栽培をしており、そこには百年以上前に建てられた古い家が、一
二〇〇戸も残っていた。中は真っ暗で窓がなく、便所もなければ入浴する場所もない。
とても人間的な暮らしではないと思い、農家のための新しい家を建てることにした。政
府の建築管理部門の役人からは、書類がきちんと揃っていないなどといわれるなど、か
なりの抵抗を受けたが、人々の暮らしのために頑としてはねのけた。
同時にアスファルト敷きの道路をつくり、トヨタ製の小型バスを走らせ、一〇元でど
こでも停まれるようにした。さらにみかんとお茶については、全品種の改良を行なった。
お茶園では休日、市民が散歩する際にお茶を提供するようにした。やがてこれが観光化
し、その地・猫空はお茶どころとして知れ渡るようになった。そして今年、地下鉄の終
点からロープウエイが引かれ、観光地としてますます栄えている。
こうした現場主義は、総統になってからも変わらない。一九九九年に台湾大震災が起
きた際には、すぐさまヘリコプターで被災地に赴いた。大震災で最大の問題は、死んだ
人間をいかに早く弔うかである。それについて現地で陣頭指揮を執って対応した。余談
になるが、昭和二十年三月十日の東京大空襲の直後、陸軍軍人として焼け跡で経験した
ことが、そこでは大いに役に立った。
また、被災地に資金を運び、直接県長に渡すこともした。政府が資金援助を決めても、
手続きを踏んで実際に地方にまでそのお金が届くのはずっと先になる。しかし現場では
そんな悠長なことはいっていられない。そこで直接資金を渡したのだが、小さい村は一
〇〇万元、大きい村には二〇〇万元と、具体的な金額まで私が決めた。官僚に任せても
現状に追いつかない、適切な判断ができないとわかっていたからだ。
一方、政府の復興委員会は副総統や行政院長(首相)に任せ、私は現地で報告を受け
るだけにした。結局、震災後三十日のうち二十一日は現地にいて、さまざまな指示を出
したことになる。
今年七月に新潟で中越沖地震が起きたとき、安倍総理もすぐ現地に飛んだという。だ
がほんの二時間しか滞在せず、現場で指示をせず、トンボ返りして具体的な対策を立て
たわけでもないと聞く。日本の知人によると、選挙用のパフォーマンスにしか見えなか
ったという。
現地で状況を的確につかみ、具体的な指示を出しつづける。そのようにして初めて、
官僚の専横を止めることができるのである。 (続く)